TRENDIA CLASSIC

記憶

梅崎春生

1 / 12

その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶が何本も出た。酩酊して新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。

つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固になって行く傾向がある。

「この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ」

その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。

「道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?」

「へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし」

彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。

「でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら」

「矢木君。君、送って行け」

佐渡が追い打ちをかけるように言った。

「見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ」

「そうですか。送ります」

矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が蒼白い。

外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟を立て、二三歩あとからついて来た。

新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。

「N方面にやって呉れ」

梅崎春生の他の作品