オモチャ箱
本文約22,400字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
三枝庄吉は、小説を書く以外につぶしのきかない異色の作家である。その文学は夢幻のようでありながら、即物的な現実性も併せ持っていた。妻と二人、貧乏と引越しを繰り返す困窮した生活を送る中で、彼自身の人生と文学は、まるでオモチャ箱のように妖しく絡み合っていた。しかし、その箱は晩年に崩壊し、妻は過酷な現実へと転落する。本作は、そんな作家の生き様と文学のあり方を、著者の眼を通して追想する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
およそ芸ごとには、その芸に生きる以外に手のない人間というものがあるものだ。碁将棋などは十四、五で初段になる、特別天分を要するものだから、その道では天来の才能に恵まれているが、外のことをやらせると国民学校の子供よりも役に立たない、まるで白痴のような人があったりする。然しこういう特殊な畸形児はせいぜい四、五段ぐらいでとまるようで、名人上手となるほどの人は他の道についても凡庸ならぬ一家の識見があるようである。
文学の場合にも、時にこういう作家が現れる。一般世間では芸ごとの世界に迷信的な偏見があって、芸人芸術家はみんなそれぞれ一種の気違いだというように考えたがるものであるが、それは仕事の性質として時間正しく規則的という風には行かないけれども、仕事の性質が不規則だ、夜仕事して昼間ねている、それだから気違いだという筈もない。
元々芸、芸術というものは日常茶飯の平常心ではできないもので、私は先日将棋の名人戦、その最終戦を見物したが、そのとき塚田八段が第一手に十四分考えた。それで観戦の土居八段に、第一手ぐらい前夜案をねってくるわけに行かないのかと尋ねたところが、前夜考えてきても盤面へ対坐すると又気持が変る、封じ手などというものは大概指手が限られていて想像がつくから、この手ならこう、あの手ならこう、とちゃんと案をねってきても、盤面へ向ってみると又考えが変って別の手をさす、そういうものだと言う。
これは僕らの仕事でも同じことだ。こういう筋を書こう、この人物にこういう行動をさせよう、そう考えていても、原稿紙に向うと気持が変る。