戯作者文学論
本文約15,300字 ・ 読了時間 約31分
あらすじ(AIが作成しました)
小説『女体』を執筆する二十日間の記録を綴る。著者自らを「戯作者」と称し、本作の制作過程において構成や描写に苦悩する様子を記す。執筆の動機として、人間の肉体を描かず知的な観念のみで解決する既存の文学作品に対する憤りを示し、心と肉体の誠実なつながりを描こうとする作家の意識を明かす。日記という形式を通じて、作家の意図と作品が独立して存在することを論じ、物語作者としてのあり方を省察する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
この日記を発表するに就ては、迷った。書く意味はあったが、発表する意味があるかどうか、疑った。
この日記を書いた理由は日記の中に語ってあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういう風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。
私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識していたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかというようなことを論ずるだろうと考えた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違っているというようなことは、然し、どうでもいいことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知っているかどうか、それすらが大いに疑問なのである。
だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑ったのだが、然し、考えてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。
そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。
平野君からの注文は「戯作者文学論」というので、私は常に自ら戯作者を以て任じているので、私にとって小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかったのではないかと思う。
私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかも知れない。然し、そう、大して違わない。私はただの戯作者でもかまわない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭の上で、私は戯作しているだけなのだ。