雪の町
本文約10,800字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
東京から信州のS町へ疎開した芸者の美津江は、戦争協力や神聖さを強要する地方の有力者たちに嫌悪感を抱きながら暮らしていた。終戦後も町の人々の手のひらを返すような姿に失望し、故郷への郷愁を募らせる。ある雪の降る日、美津江は祖父の部屋を訪ねる。変わりゆく世相の中で、老いた祖父との穏やかなひとときを過ごしながら、いつか再び東京へ戻る日を夢見て、長い雪解けの季節をやり過ごそうとする。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
神聖だと云ふ事はいつたい何だらう? 彼女は、いつも、そんな場所に到ると、ふふんと、心の中で苦笑してゐた。金使ひが澁い癖に、藝者に對しては、まるで、犬猫同然にしか考へてゐない町長が、公のもよほしごとがあると、木石のやうな固さによそほうて、その式に參列し、きまつて、一場の訓辭をたれる。式が始まる前には、東方を向いて宮城禮拜があり、英靈に對して默祷がある。きまりきつた一つの型が、大眞面目で演じられる。誰一人として不思議がるものはない。美津江は、そんな場合に、立たされた時、きまつて、吐氣の來るやうな、憤りを感じないではゐられなかつた。
神聖とは殘忍なものだと思つた。
戰爭も神聖だと云はれてゐた。だけど、こんなに毎日が追ひたてられるやうな生活でゐて何が神聖なのだらうと、彼女は不思議で仕方がない。若い妻は、戰野に良人を送り、その良人の戰死を知つても、毎日の新聞は、涙一滴こぼさないこの勇婦たちをたゝへてゐる。
神聖な未亡人になつた以上、涙なぞ流しては人にわらはれるのである。戰爭は常に、神聖を強要した。
美津江はS町の藝者で、小さい時からの習慣でこの神聖と云ふ僞物を怖れてはゐなかつたけれども、その殘忍な效果には怖れをなしてゐた。一人の暖衣飽食も許さずと云ふおふれの建前から、藝者にも一課を與へようと云ふ論が起つて、美津江は五六人の同輩といつしよに、町の工場に通ひ、アルミ板の銹落しの女工になつて、神聖なる一課を受け持つたのであつた。針鼠のやうな、金屬性のブラシで、アルミニュウム板の銹を、一日ぢゆう、きいきいと音を立ててこする仕事だつた。同じ工場では、澤山の女學生も働いてゐた。みな、眞面目に働いてゐた。根つからの工員達がなまけてゐても、女學生だけは休みもしないでせつせと、工場の中をつばめのやうに行交うて働いてゐた。