旅人
本文約7,400字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
断崖絶壁の山道を越えて阿波の吉野川沿いの村へ辿り着いた私は、漂泊の旅の途中で「道甚」という旅館に投宿する。そこでかつて東京に暮らした津助という老人の隠居生活に触れ、彼と共に釣りや語らいの日々を過ごす。祖谷の山々を望む静かな谷間で、老人の死への執着や人生観に触れつつ、都会の喧騒を離れた土地で繰り返される移ろいやすい日々や、ハーモニカを奏でて旅愁を深める孤独な心情を描く。
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斷崖絶壁の山道を往復四十里して、吉野川の下流、白地の村まで下つて來ると、恍惚の景色にも大分辟易して來てゐて、乘合自動車もろとも、河の中へ眞逆さまに落ちこんでしまひたくなつてゐる。
祖谷の山々が黄昏の彼方にかすみ、東京も遠いのであつたし、何も彼もが夢のやうである。谷間のなかには、大した人の名もなければ、大した富もなく、侘しさは侘しさのまゝに麥を植ゑ、河に魚をとつて暮してゐると云ふ、旅人の好くやうな靜かな景色の村落が、あつちにも、こつちにも點在してゐた。溷濁の浮世を離れてゐても、こゝにも世界の波は、波紋の外側のゆるい一筋の渦のやうに動いてゐる。
嶮しい山の上の農家の軒先きには、日の丸の旗がはためき、齋戒の嚴しさが淨らかに眼に浮んで來た。何も彼も、こゝからでは遠いとおもつてゐるうちに、自分の躯までがふはふはと宙に浮いて來るやうで、もう慾にも乘合自動車に乘つてゐる氣がしなくなり、鐵橋のやうに長い三好橋のそばで、私はふつと自動車から降りてしまつた。
橋を渡れば伊豫の方へ拔けてゆく街道であり、川添ひのまゝの道を下つてゆけば、昨夜泊つた阿波池田の町に行く。私は阿波池田へは降りてゆかないで、長い三好橋を渡り、伊豫路への街道を歩いた。自動車から降りてみると、四圍の山々には急に鶯や山鳩が鳴きたててゐて氣持ちがよかつた。高い橋の上から下をのぞくと、緑の水と白い砂地の境が※[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、303-下-9]と靡いてゐて、沁みるやうな苔深い色をして下流へ流れてゐる。行くさきも、わがふるさとにあらなくに、爰を旅とは何いそぐ、妙に自分を幸福だと思つた。橋の上を歩きながら笑つてゐる。山の向うの青い空には、綺麗な空氣がいつぱいつまつてゐるやうだ。
橋を渡りきると、家々のかどぐちに、藤紫のせんだんの花が咲き、まるで合歡の並木を見てゐるやうだつた。橋の袂の大きい藥屋の看板には、猫ほどもある鼠をぶらさげた男の繪が描いてあり、おほかたは猫いらずの廣告でもあるのだらうけれど、何となく妙な繪である。藥屋の前に馬方が馬を連れて立つてゐたので、この邊に旅館はないかと尋ねてみる。