日めくり
本文約16,800字 ・ 読了時間 約34分
あらすじ(AIが作成しました)
胃潰瘍の再発により入院中の娘婿を見舞うため、老夫婦は病院を訪れる。病状が悪化し衰弱する婿の姿に胸を痛める一方で、夫婦は幼い孫の健気な振る舞いに接する。帰宅後、自宅の柱にかかる日めくりが、婿が入院した日から一枚もめくられていないことに気付いた妻は、時が止まったままの生活に思いを馳せる。本作は、死の影が忍び寄る中で、家族が見せる深い愛情と悲しみを、日常の何気ない風景を重ねて描き出す。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
しんどい。
火のない掘ごたつに向いあったまま、老夫婦はだまりこんでいた。思いは一つなのだが、今はそれを口に出して云いあう気力もない。ほかにだれがいるというわけでもないのだから、今こそ、ぶちまけた相談をしてもよい筈なのだし、しなければならない時なのに、言葉が出てこない。今更、あれこれとたしかめあう必要もないといえばないのだが、ぐっと勇気をふるって腰の骨をのばさねばならないような事態に、改めて直面してみると、やっぱりしんどさが先きに立つ。年寄りらしくぜい肉を落しきったような痩せた夫は、白髪の交った眉毛を、くぼんだ眼のまぢかに寄せて、巻煙草をつまんだまま火もつけず考えこんでいる様子だし、人並はずれに太っている妻は、こたつ板に頬杖をついたまま放心したようにまばたきもしない。よっぽどしんどいらしい。
やがて夫がつぶやいた。
「虫が鳴いてる」
妻は暗い部屋に気がついたが、あかりをつけに立つのも大儀だった。近年病気がちの妻は、こんなとき一そうからだが重たくなるのだった。いつもなら身軽な夫が用を足してくれるのだが、その夫も今日は立ち上ろうとしない。そしてまたつぶやく。
「虫が鳴いたりすると、よけいかなしい」
妻に聞けというのだろうが、重ねてのつぶやきに、妻はふっとおかしさのようなものが涙と一しょにこみ上げてきた。いかにも実感のこもったそのつぶやきを笑う気はなかったのだが、四十年もつれそってきたその永い年月に、ついぞ聞いたこともない感傷的な言葉が、日頃はそんな言葉を使わないたちの夫の口から出てきたのがおかしかったのだ。くそまじめであるだけに、夫にしては実感そのままにちがいない。妻はそれで気もちがほぐれ、スイッチをいれに立った。
「かわいそうだった」
あかりに背を向けて涙をふきながら、
「彼の前では、うっかり涙もこぼせないんですもの。思いつきのうそばっかりならべ立てて気休め云って――」
「少しは病気のこと、気がついてるんじゃないのかね」
「つかない筈がないわ。でも気のつかないふりをしてるんじゃないかしら」
「ふーん」
「口がくさっても、云えないものね。本人ももしやと思っても口に出せないのね」