TRENDIA CLASSIC

木犀の花

永井荷風

1 / 5

木犀の花がさくのは中秋十五夜の月を見るころである。

甘いような、なつかしいような、そして又身に沁むような淋しい心持のする匂いである。

わたくしはこの花の香をかぐと、今だに尋常中学校を卒業したころの事を思出す。

わたくしの学んだ中学校はわたくしの卒業する前の年まで神田一ツ橋に在った。道路を隔てて高等商業学校の裏手に面していた。維新前には護持院ヶ原と言われたところで、商業学校の構内には昔を思わせる松の大木がところどころに立っていた。

わたくしがこの中学校に入って、黒い毛糸の総をつけた三角形の制帽をかぶり、小石川の家から通学しはじめたのは、後年まで人の記憶している神田の大火事のあった頃である。年代ははっきり覚えていないが、帝国議会が創設されてから二三年たった頃であろう。わたくしは神田錦町に在った私立英語学校から転校したのである。在学中、一度は数学ができなかった為、一度は病気で長く休んでいた為落第した。その後どうやら最上級に進んだ年の春、わたくしの中学はお茶ノ水に在った其本校なる高等師範学校の構内に移った。孔子を祀った大成殿と隣接したあたりに木犀の古木が多く茂っていたのである。

初に通った一ツ橋の旧校舎はもと体操練習場と称して、米国風の体操教師を養成する処であったそうである。師範学校附属の中学校になってから、大祭日や何かの時、われわれ全校の生徒が集合することになっていた広大な講堂は、体操練習場の在った頃の雨中体操場をそのまま修繕したものだと云う話であった。あまりに広過るので、平日は幾枚かの衝立で仕切られて、一方は食堂、一方は唱歌の教室、また別に倫理の教室に当てられていた。わたくしは此処で儒者南摩羽峯先生の論語講義を聴いた。羽峯先生は維新前には会津の藩儒として知られていた学者である。衝立を隔てた唱歌の教室では、後年東洋音楽学校を創立された鈴木米次郎先生から楽譜をよむ事を教えられた。今日世に流布している「四百余州を挙る」とかいう元寇の歌は、その頃鈴木先生が洋楽の原譜から作り替えられたものだと云う事で、われわれは印刷された曲譜を買った。

永井荷風の他の作品