芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振って逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるものとは考えていない。然し一般には、笑いは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ危く抹殺を免かれている位いであるから、道化の如き代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である。と言って、それだからと言って、私は別に義憤を感じて爰に立ち上った英雄では決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが。
ところで――
(まず前もって白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当っても、何一つとして先人の手に成った権威ある文献を渉猟してはいないため、一般の定説や、将又ファルスの発生なぞということに就て一言半句の差出口を加えることさえ不可能であり、従而、最も誤魔化しの利く論法を用いてやろうと心を砕いた次第であるが、――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であろうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まって卒倒するかも知れないのですが――)
扨て、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当っても、敢て世論を向うに廻して、「ファルスといえども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言われるのも聊か心外であるために、先ず、何の躊躇らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と看做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけようとするものである。