籠釣瓶
本文約64,400字 ・ 読了時間 約129分
あらすじ(AIが作成しました)
野州佐野の豪商・次郎左衛門は、家業を傾け博奕に明け暮れる日々を送る中、江戸の吉原で遊女・八橋に熱烈に恋をする。全財産を注ぎ込み彼女を身請けしようと躍起になるが、背景に別の男性の影を感じ取ると激しい独占欲と嫉妬に駆られる。虚構の誓いと深い愛執に翻弄された末、次郎左衛門は吉原で凄惨な事件を引き起こすこととなり、名刀・籠釣瓶を巡る愛憎の果てを鮮烈に描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
次郎左衛門が野州佐野の宿を出る朝は一面に白い霜が降りていた。彼に伴うものは彼自身のさびしい影と、忠実な下男の治六だけであった。彼はそのほかに千両の金と村正の刀とを持っていた。享保三年の冬は暖かい日が多かったので、不運な彼も江戸入りまでは都合のいい旅をつづけて来た。日本橋馬喰町の佐野屋が定宿で、主と家来はここに草鞋の紐を解いた。
「当分御逗留でござりますか」
宿の亭主に訊かれた時に、次郎左衛門は来春まで御厄介になるといって、亭主の顔に暗いかげをなげた。正直な亭主は彼のためにその長逗留を喜ばなかったのである。治六が下へ降りて来たのをつかまえて、亭主は不安らしくまた訊いた。
「旦那はまた長逗留かね。お家の方はどうなっているんだろう」
「いや、もう、お話にならねえ」と、治六は帳場の前にぐたりと坐って馬士張りの煙管をとり出した。彼の父も次郎左衛門の家の作男であったが、彼が四つの秋に両親ともほとんど同時に死んでしまったので、みなし児の彼は主人の家に引き取られて二十歳の今年まで養われて来た。侍でいえば譜代の家来で、殊に児飼いからの恩もあるので、彼はどうしても主人を見捨てることはできない因縁になっていた。
「実をいうと、佐野のお家はもう駄目だ。とうとう押っ潰れてしまったよ」と、治六は悲しそうな眼をしばたたいた。
亭主はしばらく黙って、旅疲ればかりではないらしい彼の痩せた顔を見つめていた。
「お家が潰れた」と、亭主は呆れたように言った。「いつ、どうして……。この前に見えた時にはちっともそんな話はなかったが……」
「なに、あのときにも内々覚悟はしていたのだが、この秋になって急にばたばたと傾いて来たので……。こうなっちゃあ人間の力で防ぎは付かねえ」