作物の批評
本文約6,400字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
学校の教師が自身の専門外の教科を批判することへの弊害を例に、文学批評家が自身の狭隘な基準で多様な作品を安易に裁く姿勢を論じる。批評家は多様な作品を汲み取る柔軟な見識を持つべきであり、既存の法則に固執せず、変化する文学精神に応じた批評眼を養う必要性を説く。さらに、過去の文献を材料に批評の土台を組織的に築き上げ、未来の文学発展のために研究成果を共有することを提案する随筆である。
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中学には中学の課目があり、高等学校には高等学校の課目があって、これを修了せねば卒業の資格はないとしてある。その課目の数やその按排の順は皆文部省が制定するのだから各担任の教師は委託をうけたる学問をその時間の範囲内において出来得る限りの力を尽すべきが至当と云わねばならぬ。
しかるに各課担任の教師はその学問の専門家であるがため、専門以外の部門に無識にして無頓着なるがため、自己研究の題目と他人教授の課業との権衡を見るの明なきがため、往々わが範囲以外に飛び超えて、わが学問の有効を、他の領域内に侵入してまでも主張しようとする事がある。たとえば英語の教師が英語に熱心なるのあまり学生を鞭撻して、地理数学の研修に利用すべき当然の時間を割いてまでも難句集を暗誦させるようなものである。ただにそれのみではない、わが専攻する課目のほか、わが担任する授業のほかには天下又一の力を用いるに足るものなきを吹聴し来るのである。吹聴し来るだけならまだいい。はてはあらゆる他の課目を罵倒し去るのである。
かかる行動に出ずる人の中で、相当の論拠があって公然文部省所定の課目に服せぬものはここに引き合に出す限りではない。それほどの見識のある人ならば結構である。四角に仕切った芝居小屋の枡みたような時間割のなかに立て籠って、土竜のごとく働いている教師より遥かに結構である。しかし英語だけの本城に生涯の尻を落ちつけるのみならず、櫓から首を出して天下の形勢を視察するほどの能力さえなきものが、いたずらに自尊の念と固陋の見を綯り合せたるごとき没分暁の鞭を振って学生を精根のつづく限りたたいたなら、見じめなのは学生である。熱心は敬服すべきである。精神は嘉すべきである。その善意的なるもまた多とすべきである。あるにもかかわらず学生は迷惑である。当該課目における智識が欠乏するためではない、当該課目以外の智識が全然欠乏しているからである。ただ欠乏しているからではない。その結果としていらぬところまでのさばり出て、要もない課目を打ちのめさねばやまぬていの勇気があるから迷惑なのである。