TRENDIA CLASSIC

半七捕物帳

岡本綺堂

1 / 20

半七老人を久し振りでたずねたのは、十一月はじめの時雨れかかった日であった。老人は四谷の初酉へ行ったと云って、かんざしほどの小さい熊手を持って丁度いま帰って来たところであった。

「ひと足ちがいで失礼するところでした。さあ、どうぞ」

老人はその熊手を神棚にうやうやしく飾って、それからいつもの六畳の座敷へわたしを通した。酉の市の今昔談が一と通り済んで、時節柄だけに火事のはなしが出た。自分の職業に幾らか関係があったせいであろうが、老人は江戸の火事の話をよく知っていた。放火はもちろん重罪であるが、火事場どろぼうも昔は死罪であったなどと云った。そのうちに、老人は笑いながらこんなことを語りだした。

「いや、世の中には案外なことがあるもんでしてね。これは少し差し合いがありますから、町内の名は申されませんが、やっぱり下町のことで、いつかお話をしたお化け師匠の家のあんまり遠くないところだと思ってください。そこに変なことが出来したんで、一時は大騒ぎをしましたよ」

神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太にかいた行燈の灯がぼんやりと点されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどき鳴った。

「そら、火事だ」

あわてて駈け出した人々は、どこにも煙りの見えないのに呆れた。そういうことがひと晩のうちに一度二度、時によると三、四度もつづいて、一つばんもある。二つばんもある。近火の摺りばんを滅多打ちにじゃんじゃんと打ち立てることもある。町内ばかりでなく、その半鐘の音がそれからそれへと警報を伝えて、隣り町でもあわてて半鐘を撞く。火消しはあてもなしに駈けあつまる。それは湯屋の煙りすらも絶えている真夜中のことで、なにを見誤ったのかちっとも要領を得ないで引き揚げることもある。しまいには人も馴れてしまって、誰かが悪戯をするに相違ないと決まったが、ほかの事とは違うので、そのいたずら者の詮議が厳重になった。

岡本綺堂の他の作品