深夜の市長
本文約109,200字 ・ 読了時間 約219分
あらすじ(AIが作成しました)
深夜の散歩を最大の楽しみとする語り手は、夜のT市が昼間とは全く別個の存在であることを知っている。ある日、語り手は深夜の街で「深夜の市長」と呼ばれる人物に出会う。司法官という職に悩み、退職を決意した語り手は、再び深夜の市長の居所を訪れるが、そこは既に空になっていた。残されていた手紙と仮面により、語り手は彼やその一党と永遠の別れを告げられ、深夜の街には彼らが残した謎だけが今もなお静かに佇んでいる。
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ナニシロコレハ一篇ノ小説デアル。作中、T市長ダノ銀座ダノトイウ名詞ガ出テクルガ、コレハ決シテ何処カノ帝都ニアッタ実話ナドヲもでるニシタモノデハゴザイマセン。
1
「深夜の市長」に始めて会ったのは、陽春とは名ばかりの、恐ろしく底冷えのする三月二十九日の夜のことだった。
ラジオの気象通報は、中国大陸にあった高気圧が東行してかなり裏日本に迫り、北西風が強く吹き募ってきたことを報じた上、T市地方は二、三日うちにまた雪になるでしょうと有難くない予報をアナウンスした。
そのアナウンスもやがてぷっつりと切れ、暗黒なエーテルの漂う夜空からは、内地の放送局が一つ一つお休みなさいを云って電波を消してゆき、あとには唯一つ、南京放送局の婦人アナウンサーが哀調を帯びた異国語で何かしら悠くりと喋っている声だけが残っていた。
その嬌声を副食物にして、僕は押入から出してきた電気麺麭焼器でこんがりと焦げた薄いトーストを作っては喰べ、作っては喰べした。それからH社から頼まれているコントを三つほど書き、ついでにその編集者へ原稿料をもっと上げて貰えないかという手紙を一本認め、それが済むと書き捨ての原稿紙が氷原のように真白に散乱している部屋をすっかり片づけ、掃除をし、それから蒲団を敷いた上、電気炬燵も一応足のところへ入れて置いて、帰ってきても冷い足をすぐ温められるようにし、次に洋服箪笥を開いて、予て一着分用意してあった古洋服を下して着換えた。そしてこれだけは上等交りけなしというラクダの襟巻をしっかりと頸に巻きつけ、その上に莨の焼跡がところどころにある真黒なオーヴァに腕を通し、名ばかりは天鵞絨のウィーン帽子を深々と被り、電灯のスイッチをひねって、それからなるたけ音のしないように靴を履き、洋杖を抜きだし、表の戸を明け、外から秘密の締まりの孔へ太い釘をさし、それから小暗い路地にソロソロと歩を搬びながら、始めてホッと溜息をついたのだった。