父の誕生日に瓦斯マスクの贈物
「やあ、くたびれた、くたびれた」家中に響きわたるような大声をあげて、大旦那の長造が帰って来た。
「おかえりなさいまし」お内儀のお妻は、夫の手から、印鑑や書付の入った小さい折鞄をうけとると、仏壇の前へ載せ、それから着換えの羽織を衣桁から取って、長造の背後からフワリと着せてやった。「すこし時間がおかかりなすったようね」
「ウン。――」長造は、言おうか言うまいかと、鳥渡考えたのち「こう世間が不景気で萎びちゃっちゃあ、何もかもお終いだナ」
「また、いい日が廻ってきますよ、あなた」お妻は、夫の商談がうまく行かなかったらしいのを察して、慰め顔に云った。
「……」長造は、無言で長火鉢の前に胡座をかいた「おや、ミツ坊が来ているらしいね」
小さい毛糸の靴下が、伸した手にひっかかった――白梅の入った莨入の代りに。
「いま、かアちゃんと、お湯に入ってます。一時間ほど前に、黄一郎と三人連れでやって来ました」
「ほう、そうか、この片っぽの靴下、持ってってやれ。喜代子に、よく云ってナ、春の風邪は、赤ン坊の生命取りだてえことを」
「それが、あの児、両足をピンピン跳ねて直ぐ脱いでしまうのでね、あなた今度見て御覧なさい、そりゃ太い足ですよ、胴中と同じ位に太いんです」
「莫迦云いなさんな、胴中と足とが、同じ位の太さだなんて」
「お祖父さんは、見ないから嘘だと思いなさるんですよ。どれ持ってってやりましょう」
お妻は、掌の上に、片っぽの短い靴下を、ブッと膨らませて載せた。それがお妻には、まるでおもちゃの軍艦の形に見えた。
「おい、あのなには……」と長造はお妻を呼び止めた。
「弦三はもう帰っているかい」
「弦三は、アノまだですが、今朝よく云っときましたから、もう直ぐ帰ってくるに違いありませんよ」
「あいつ近頃、ちと帰りが遅すぎるぜ、お妻。もうそろそろ危い年頃だ」
「いえ、会社の仕事が忙しいって、云ってましたよ」