山県有朋の靴
本文約14,100字 ・ 読了時間 約29分
あらすじ(AIが作成しました)
山県有朋の靴磨きを命じられている旗本出身の平七は、かつて旗本公子として誇り高く生きた過去を持ちながら、今は没落した境遇にある。ある日、有朋の靴を巡って娘のお雪が有朋の横暴を激しく告発する騒動が起きる。その混乱の中、平七は主人の靴を抱え、ただ無言のまま大川へと身を投じ、かつての誇りを失った自身の人生と訣別するかのように深い水の底へと沈んでいく。
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一
「平七。――これよ、平七平七」
「…………」
「耳が遠いな。平七はどこじゃ。平はおらんか!」
「へえへえ。平はこっちにおりますんで、只今、お靴を磨いておりますんで」
「庭へ廻れ」
「へえへえ。近ごろまた東京に、めっきり美人がふえましたそうで、弱ったことになりましたな」
「またそういうことを言う。貴様、少うし腰も低くなって、気位もだんだんと折れて来たと思ったらじきに今のような荊を出すな。いくら荊を出したとて、もう貴様等ごとき痩せ旗本の天下は廻って来んぞ」
「左様でございましょうか……」
「左様でございましょうかとは何じゃ。そういう言い方をするから、貴様、いつも叱られてばかりいるのじゃ。おまえ、郵便報知というを知っておろうな」
「新聞社でございますか」
「そうじゃ。あいつ、近ごろまた怪しからん。貴様、今から行ってネジ込んで参れ」
「なにをネジ込むんでございますか」
「わしのことを、このごろまた狂介々々と呼びずてにして、不埒な新聞じゃ。山県有朋という立派な名前があるのに、なにもわざわざ昔の名前をほじくり出して、なんのかのと、冷やかしがましいことを書き立てんでもよいだろう。新聞が先に立って、狂介々々と呼びずてにするから、市中のものまでが、やれ狂介権助丸儲けじゃ、萩のお萩が何じゃ、かじゃと、つまらんことを言い囃すようになるんじゃ。怪しからん。今からすぐにいって、しかと談じ込んで参れ」
「どういう風に、談じ込むんでございますか。控えろ、町人、首が飛ぶぞ、とでも叱って来るんでございますか」
「にぶい奴じゃな。山県有朋から使いが立った、と分れば、わしが現在どういう職におるか、陸軍、兵部大輔という職が、どんなに恐ろしいものか、おまえなんぞなにも申さずとも、奴等には利き目がある筈じゃ。すぐに行け」
「へえへえ。ではまいりますが、この通りもう夕ぐれ近い時刻でございますから、かえりは少々おそくなるかも存じませんが、今夜もやはり、こちらでございますか。それとも御本邸の方へおかえりでございますか」