本文へ移動
TORENDIA

木魂

本文約23,800字 ・ 読了時間 約48分

あらすじ(AIが作成しました)

不眠症を患う教員の男は、毎朝線路で汽車に轢かれる不吉な予感に苛まれていた。最愛の妻と一人子を亡くして以来、彼をこの幻影は離さず、過去の記憶と現状の混濁の中で精神は不安定さを増していく。ある朝、再び線路に佇んだ男は、亡き家族への追憶と自身の幻想に翻弄されながら、極限状態の心理的混乱に飲み込まれていく。自己の精神の崩壊と現実に潜む死の予兆を軸に、男の不可思議な意識の彷徨を描く。

夢野久作

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 31

……俺はどうしてコンナ処に立ち佇まっているのだろう……踏切線路の中央に突立って、自分の足下をボンヤリ見詰めているのだろう……汽車が来たら轢き殺されるかも知れないのに……。

そう気が付くと同時に彼は、今にも汽車に轢かれそうな不吉な予感を、背中一面にゾクゾクと感じた。霜で真白になっている軌条の左右をキョロキョロと見まわした。それから度の強い近眼鏡の視線を今一度自分の足下に落すと、霜混りの泥と、枯葉にまみれた兵隊靴で、半分腐りかかった踏切板をコツンコツンと蹴ってみた。それから汗じみた教員の制帽を冠り直して、古ぼけた詰襟の上衣の上から羊羹色の釣鐘マントを引っかけ直しながら、タッタ今通り抜けて来た枯木林の向うに透いて見える自分の家の亜鉛屋根を振り返った。

……一体俺は、今の今まで何を考えていたのだろう……。

彼はこの頃、持病の不眠症が嵩じた結果、頭が非常に悪るくなっている事を自覚していた。殊に昨日は正午過ぎから寒さがグングン締まって来て、トテモ眠れそうにないと思われたので、飲めもしない酒を買って来て、ホンの五勺ばかり冷のまま飲んで眠ったせいか、今朝になってみると特別に頭がフラフラして、シクンシクンと痛むような重苦しさを脳髄の中心に感じているのであった。その頭を絞るように彼は、薄い眉をグット引寄せながら、爪先に粘り付いている赤い泥を凝視めた。

……おかしいぞ。今朝は俺の頭がヨッポドどうかしているらしいぞ……。

……俺は今朝、あの枯木林の中の亜鉛葺の一軒屋の中で、いつもの通りに自炊の後始末をして、野良犬が這入らないようにチャント戸締りをして、ここまで出かけて来たことは来たに相違ないのだが、しかし、それから今までの間じゅう、俺は何を考えていたのだろう。……何か知らトテモ重大な問題を一生懸命に考え詰めながら、ここまで来たような気もするが……おかしいな。今となってみるとその重大な問題の内容を一つも思い出せなくなっている……。

……おかしい……おかしい……。何にしても今朝はアタマが変テコだ。こんな調子では又、午後の時間に居眠りをして、無邪気な生徒たちに笑われるかも知れないぞ……。

夢野久作の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本