TRENDIA CLASSIC
微笑
横光利一
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次の日曜には甲斐へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっていると梶は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばらくの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると、街の探訪放送で、脳病院から精神病患者との一問一答が聞えて来た。そして、終りに精神科の医者の記者に云うには、
「まア、こんな患者は、今は珍らしいことではありません。人間が十人集れば、一人ぐらいは、狂人が混じっていると思っても、宜しいでしょう。」
「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつかえありませんね、あはははははは――」
笑う声が薄気味わるく夜の灯火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。
「あははははは……」
長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。
自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難しいことである。そうではないと思うよりは、難しいことであると梶は思った。それにしても、いまも梶には分らぬことが一つあった。人間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだが、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る一種異様な記憶であった。
それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。
「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」
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