春昼
本文約31,500字 ・ 読了時間 約64分
あらすじ(AIが作成しました)
春の長閑な日、散策子は逗子近郊の村で農夫に出会い、角屋敷の付近で蛇を見かけたと伝える。その屋敷には美しい婦人が住んでいた。後日、ある客人が体験した奇妙な物語が語られる。それは、松原の邸の御新姐と客人が重なり合うような幻影を見たという怪異譚である。現実と夢、あるいは幻が交錯する中で、客人は舞台の上の光景に魅入られ、やがてその身を海へと向かわせる。物語は、屋敷を巡る幻想的な影と、美人の霊が漂う静かな情景を描く。
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一
「お爺さん、お爺さん。」
「はあ、私けえ。」
と、一言で直ぐ応じたのも、四辺が静かで他には誰もいなかった所為であろう。そうでないと、その皺だらけな額に、顱巻を緩くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色で、長閑かに鍬を使う様子が――あのまたその下の柔な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅の夕陽の中に、ひらひらと入って行きそうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり揺ぶって頻に囀っている鳥の音こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付きそうもない、恍惚とした形であった。
こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸けるのじゃなかったかも知れぬ。
何為なら、さて更めて言うことが些と取り留めのない次第なので。本来ならこの散策子が、そのぶらぶら歩行の手すさびに、近頃買求めた安直な杖を、真直に路に立てて、鎌倉の方へ倒れたら爺を呼ぼう、逗子の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済んだのである。
多分は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分。余計な世話だけれども、黙きりも些と気になった処。響の応ずるが如きその、(はあ、私けえ)には、聊か不意を打たれた仕誼。
「ああ、お爺さん。」
と低い四目垣へ一足寄ると、ゆっくりと腰をのして、背後へよいとこさと反るように伸びた。親仁との間は、隔てる草も別になかった。三筋ばかり耕やされた土が、勢込んで、むくむくと湧き立つような快活な香を籠めて、しかも寂寞とあるのみで。勿論、根を抜かれた、肥料になる、青々と粉を吹いたそら豆の芽生に交って、紫雲英もちらほら見えたけれども。
鳥打に手をかけて、
「つかんことを聞くがね、お前さんは何じゃないかい、この、其処の角屋敷の内の人じゃないかい。」
親仁はのそりと向直って、皺だらけの顔に一杯の日当り、桃の花に影がさしたその色に対して、打向うその方の屋根の甍は、白昼青麦をる空に高い。
「あの家のかね。」
「その二階のさ。」
「いんえ、違います。」