明治座の所感を虚子君に問れて
本文約2,500字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
虚子に誘われて明治座を訪れた著者が、観劇を通じて感じた日本の芝居に対する批評を綴る。序盤は不慣れな芝居に困惑する様子を描きつつ、次第に役者の意図を理解していく。しかし、作品の筋書きが今日の開明的な感覚と乖離している点や、滑稽な演出に対して厳しい視線を向ける。特定の演目における構成や過剰な誇張を分析しつつ、芸術として純粋に楽しめる部分にも言及。芝居の長時間化や観客の鑑賞態度、役者の苦労までを論じ、現代の視点から日本の演劇文化のあり方に疑問を投じる。
💰 この本を応援する(投げ銭)
○虚子に誘われて珍らしく明治座を見に行った。芝居というものには全く無知無識であるから、どんな印象を受けるか自分にもまるで分らなかった。虚子もそこが聞きたいので、わざわざ誘ったのである。もっとも幼少の頃は沢村田之助とか訥升とかいう名をしばしば耳にした事を覚えている。それから猿若町に芝居小屋がたくさんあったかのように、何となく夢ながら承知している。しかも、あとから聞くと訥升が贔屓だったという話であるから驚ろく。それはおおかた嘘だろうと思う。物心がついてからは全く芝居には足を入れなかった。しかし自分の兄共は揃も揃って芝居好で、家にいると不断仮色などを使っているから、自分はこの仮色を通して役者を知っていた。それから今日までに団十郎をたった一遍見た事があるばかりである。もっとも新派劇は帰朝後三四遍見たが、けっして好じゃない。いつでも虚子に誘われて行くだけで、行ったあとでは大いに辟易するくらいである。
○それで明治座へ行って、自分の枡へ這入ってみると、ただ四方八方ざわざわしていろいろな色彩が眼に映る感じが一番強かった。もっともこれは能とさほど性質において差違はないが、正面の舞台で女の生首を抱いたり箱へ入れたりしているのにその所作には一向同情がない。万事余計な事をしているように思われる。まるで西洋人が始めて日本の芝居を見たら、こうだろうと想像されるくらい妙な心持であった。全く魚の陸見物である。
○それからだんだん慣れて来たら、ようやく役者の主意の存するところもほぼ分って来たので、幾分か彼我の胸裏に呼応する或ものを認める事ができたが、いかんせん、彼らのやっている事は、とうてい今日の開明に伴った筋を演じていないのだからはなはだ気の毒な心持がした。