藤村の文学にうつる自然
本文約6,100字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
島崎藤村の文学に自然がどのように受容され、示されているかを論じる。幼少期に故郷の馬籠から離れ寄寓の身となった体験や、感傷的なロマンチシズムから小諸での生活を経て自然を労働の対象として捉えるに至った変遷をたどる。その詩作における自然観が、過去の日本芸術の伝統や西洋文学の影響を受けつつ、どのように人間生活と結びつき、やがて小説形式への転換や老年期の教訓的な表現へと繋がったのかを、生涯の背景と共に綴る。
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現代の日本の作家の中で、その作品に最も多く自然をうけ入れ、示しているのは誰であろう。島崎藤村をその一人としてあげ得ると思う。
藤村は、明治五年、長野県の馬籠で生れた。家は馬籠の旧本陣で、そこの大規模な家の構え、召使いなどの有様は、「生い立ちの記」の中にこまかく描かれている。父というひとは、「それは厳格で」「家族のものに対しては絶対の主権者で、私達に対しては又、熱心な教育者で」あった。髪なども長くして、それを紫の紐で束ねて後へ下げ、古い枝ぶりの好い松の樹が見える部屋で、幼い藤村に「大学」や「論語」の素読を教えた。その父の案で、藤村は僅か九歳のとき、兄と一緒に東京の姉の家へ、勉強によこされたのであった。
そのときから、二十二三歳になった藤村が詩をつくるようになって、文学的生涯に入るようになるとともに思想的な動揺から数年間に亙る放浪の旅へ出るまで、少年藤村の毎日は明治十三年から二十七年時代の東京で銀座裏や大川端や高輪辺に過された。しかも、これらは、いずれも馬籠の父の家と親類にあたる家か、さもなければ先輩・知人の家で、少年藤村は謂わば寄寓の身の上であった。「生い立ちの記」をよんで見ると、国を出る迄末息子としての藤村が、お牧という専属の下女にかしずかれ、情愛の深い太助爺を遊び対手とし、いかにも旧本陣の格にふさわしい育ち方をしている姿がまざまざと浮んで来る。それが急に言葉から食物まで違う東京、母も姉もお祖母さんも傍にはいないよその家での明暮となり、小さい藤村が、故郷の景色を懐しく思い出し、故郷でたべた焼米や椋葉飯やを恋うた心の切なさはまことに想像される。紫紐で髪を結えた藤村の父は、僅か九つ、今日なら小学二年生になったばかりの息子を東京へやる餞別として、五六枚の短冊を与えた人である。「行ひは必ず篤敬。云々。」と書き与えた人である。故郷が恋しい、母サンやお祖母サンガ居ナイカラ僕ツマンナイヤ、とは、幼い藤村の手紙に決して率直に書かれなかったであろう。