TRENDIA CLASSIC

老主の一時期

岡本かの子

1 / 20

「お旦那の眼の色が、このごろめつきり鈍つて来たぞ。」

店の小僧や番頭が、主人宗右衛門のこんな陰口を囁き合ふやうになつた。宗右衛門の広大な屋敷内に、いろは番号で幾十戸前の商品倉が建て連ねてある。そのひとつひとつを数人宛でかためて居る番頭や小僧の総数は百人以上であつた。その多人数の何処か一角から起つたひとつの話題が、全体へ行き渡るまでには余程の時間がかゝる。そしてその話題によほどの確実性と普遍性がなければ、多くはある一角、または半数、三分の一くらゐなところで、いつも立ち消えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎に角今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。

山城屋宗右衛門のその一瞥で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。

岡本かの子の他の作品