夏の夜の夢
本文約7,700字 ・ 読了時間 約16分
あらすじ(AIが作成しました)
兄の家で退屈な日々を過ごす歳子は、ある晩、近所の荒れた庭で青年・牧瀬と出会う。以来、二人は夏の夜ごとに庭で対話し、夜が明けるまでのつかの間の夢のような時間を共有する。やがて結婚を控えた歳子は、婚約者に牧瀬との体験を語り、その言葉を受け入れられることで、婚約者の明哲さに心を開く。牧瀬は遠く中央亜細亜へと発ち、歳子はその不可思議な出会いを生涯の思い出として胸に刻む。
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月の出の間もない夜更けである。暗さが弛んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。
「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」
洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。
窓硝子に映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。
「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」
歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順しく返事をしたので、却つて気が痛みかけた。
「兄さん、棕櫚の花が咲いてますのよ。葉の下の梢に房のやうに沢山。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花が零れるのですわ。」
兄の気持ちを取做し気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、
「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、粟を撒いたやうに綺麗に零れてゐるよ。」と云つた。
歳子は跼つて、掌で地をそつと撫でて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それは爽かな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中に金屑を踏む」といふ東洋の哲人の綺麗な詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花の撒ものを踏み越した。そして葉の緻密な紫のアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人とも、まるで縁のない人間のやうに思へた。