TRENDIA CLASSIC
支那人弁髪の歴
史
桑原隲藏
1 / 12
一
中華民國が成立してから殆ど一週年、黄龍旗が五彩旗と變つたと共に、支那人の辮髮も次第に散髮と變じ、清朝最後の皇帝であつた宣統帝すら、昨夏既に辮を解いたと傳へられて居る。名物の辮髮がその影を中華全土に絶つに至るは、或は遠き將來であるまいと思はれる。
この名物の支那人の辮髮は、世間で普通に考へられて居るやうに、決して清朝からはじまつたものではない。遙かその以前の金時代、即ち今より約八百年前に實行されたこともある。金以前にも辮髮種族が支那内地を占領して、國を建てたことがあるけれども、當時果してその領内の漢人が辮髮したか否かは判然せぬ。内地在住の漢人が、明に辮髮したのは、金以來のことである。
金即ち女眞は辮髮種族であつた。その辮髮に就いては、宋の陳準の『北風揚沙録』(1)に、
人皆辮髮、與二契丹一異。耳垂二金環一、留二臚後髮一、以二色絲一繋レ之。富人用二珠金一爲レ飾。
とあるのが尤も詳い記事である。『大金國志』(2)にも略同樣の記載をして居る。辮髮の形状は、此等の記録によつても、多少不判明であるが、金と後の清朝とは同一か、然らずとも極めて近親の種族の間柄であるから(3)、女眞の辮髮の形は、滿人のそれと大差なかつたものと想像される。
金は西暦千百十四年に遼より獨立し、千百二十五年に遼を滅ぼして、中國の北邊十餘州を手に入れ、ついで千百二十七年に北宋の國都開封を陷れてから、中國の半を占領することとなつた。今の地理でいへば、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部は、金の版圖に歸したのである。かくて金の太宗の天會七年(西暦一一二九)に、始めてその領内の漢人に對して、胡服・髮の令を下した。
是年六月行二下禁一。民漢服及削髮不レ如レ式者死。(4)
桑原隲藏の他の作品
TRENDIA CLASSIC
紙の歴史
桑原隲藏
紙の歴史
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
元時代の蒙古人
桑原隲藏
元時代の蒙古人
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那史上の偉人
(孔子と孔明)
桑原隲藏
支那史上の偉人(孔子と孔明)
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那人の食人肉
風習
桑原隲藏
支那人の食人肉風習
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那人間に於け
る食人肉の風習
桑原隲藏
支那人間に於ける食人肉の風習
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那の宦官
桑原隲藏
支那の宦官
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那猥談
桑原隲藏
支那猥談
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
秦始皇帝
桑原隲藏
秦始皇帝
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
司馬遷の生年に
関する一新説
桑原隲藏
司馬遷の生年に関する一新説
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那の孝道殊に
法律上より觀た
る支那の孝道
桑原隲藏
支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
支那の古代法律
桑原隲藏
支那の古代法律
桑原隲藏
TRENDIA CLASSIC
創建清眞寺碑
桑原隲藏
創建清眞寺碑
桑原隲藏