本文へ移動
TORENDIA

旧聞日本橋

本文約8,500字 ・ 読了時間 約18分

あらすじ(AIが作成しました)

湯川金左衛門邦純は、幕府崩壊と没落により、武士の身分や財産を失いながらも、商才を頼りに激動の時代を渡り歩く。江戸で育った元旗本のこの老人は、老いてもなお硫黄の採掘という夢を追い、数々の失敗を重ねながらも生涯をかけて情熱を燃やし続ける。本作は、著者の親族であるこの老人の数奇な九十年の生涯と、その波乱に満ちた生活の断片を、孫である語り手の眼差しを通して描き出す随筆である。

長谷川時雨

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 11

鼠小僧の住んでいた、三光新道のクダリに、三光稲荷のあったことを書きおとした。三光稲荷は失走人の足止の願がけと、鼠をとる猫の行衛不明の訴をきく不思議な商業のお稲荷さんで、猫の絵馬が沢山かかっていた。霊験いやちこであったと見え、たま、五郎、白、ゆき、なぞの年月や、失走時や、猫姿を白紙に書いて張りつけてあった。その近くに鼠小僧の隠れ家があったわけになる。

油町あたりの呉服商の細君であった祖母が、鼠小僧の人柄なぞをどうして知っていたのかと思ったら、そのころ祖母夫婦は、楽屋新道――葺屋町、堺町、などの芝居に近い――の附近に住っていた。場処がらで気らくに暮していたと見え、近所の岡っ引の細君と仲をよくしていたという。自然そんなことから鼠小僧の引廻しも見たのであろう。

七ツのアンポンタンに、九ツのアンポンタンに、十一、十二のアンポンタンにおぼろげながら近くの町の人の生活ぶりや身近な人たちのそれがぼんやりとうつってきて、言様のないさびしさと、期望しても期望しても満されない佗しさがあった。譬えて見れば、お正月になったら賑かだろう、――賑かだろうという漠然とした思いのなかに、子供の空想と希望と理想が充満している。それが元旦の夕方ちかくなると、ああ、もう日が暮れるのにと、どうしていいかわからない物足りなさが憂鬱をもってくる。それにも似た――事はまるで違うが、日々にぶつかる余儀ないさびしさだった。

ある日、あたしは母の父の顔を穴のあくほど凝と見た。この老爺さんは寺院で見る大木魚のような顔をしていた。木魚は小さいのは可愛らしいものであるが、大きなのが茵を敷いて座っていると、かなりガクガクとした平たい四角である。老爺さんの顔も大きな四角なお出額で顎も張っている。そのくせ鼻は丸く安座をかいていて小さい目は好人物というより、滑稽味のある剥身に似た、これもけんそんな眼だ。白い髭が鼻の下にガサガサと生えて、十二月の野原の薄のような頭髪が、デコボコな禿た頭にヒョロヒョロしている。悪口すれば、侏儒ともいえる、ずんぐりと低い醜い人だ。

長谷川時雨の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本