TRENDIA CLASSIC

艶書

泉鏡太郎

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「あゝもし、一寸。」

「は、私……でございますか。」

電車を赤十字病院下で下りて、向うへ大溝について、岬なりに路を畝つて、あれから病院へ行くのに坂がある。あの坂の上り口の所で、上から來た男が、上つて行く中年増の媚かしいのと行違つて、上と下へ五六歩離れた所で、男が聲を掛けると、其の媚かしいのは直ぐに聞取つて、嬌娜に振返つた。

兩方の間には、袖を結んで絡ひつくやうに、ほんのりと得ならぬ薫が漾ふ。……婦は、薄色縮緬の紋着の單羽織を、細り、痩ぎすな撫肩にすらりと着た、肱に掛けて、濃い桔梗色の風呂敷包を一ツ持つた。其の四ツの端を柔かに結んだ中から、大輪の杜若の花の覗くも風情で、緋牡丹も、白百合も、透きつる色を競うて映る。……盛花の籠らしい。いづれ病院[#ルビの「びやうゐん」は底本では「びやうろん」]へ見舞の品であらう。路をしたうて來た蝶は居ないが、誘ふ袂に色香が時めく。……

輕い裾の、すら/\と蹴出にかへると同じ色の洋傘を、日中、此の日の當るのに、翳しはしないで、片影を土手に從いて、しと/\と手に取つたは、見るさへ帶腰も弱々しいので、坂道に得堪へぬらしい、なよ/\とした風情である。

「貴女、」

と呼んで、ト引返した、鳥打を被つた男は、高足駄で、杖を支いた妙な誂へ。路は恁う乾いたのに、其の爪皮の泥でも知れる、雨あがりの朝早く泥濘の中を出て來たらしい。……雲の暑いのにカラ/\歩行きで、些と汗ばんだ顏で居る。

「唐突にお呼び申して失禮ですが、」

「はい。」

と一文字の眉はきりゝとしながら、清しい目で優しく見越す。

「此から何方へ行らつしやる?……何、病院へお見舞のやうにお見受け申します。……失禮ですが、」

「えゝ、然うなんでございます。」

此處で瞻つたのを、輕く見迎へて、一ツ莞爾して、

「否、お知己でも、お見知越のものでもありません。眞個唯今行違ひましたばかり……ですから失禮なんですけれども。」

と云つて、づツと寄つた。

「別に何でもありませんが、一寸御注意までに申さうと思つて、今ね、貴女が行らつしやらうと云ふ病院の途中ですがね。」

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