飯坂ゆき
本文約6,300字 ・ 読了時間 約13分
あらすじ(AIが作成しました)
五月十三日の午後、旅人は奥州の飯坂温泉を訪れる。伊達駅で車夫に案内され、飯坂へ向かう道中で農村の風景や商人の荷車、温泉街の独特な景観を観察する。宿に到着すると、摺上川を挟んで湯治客の姿や対岸の往来が見通せる風情ある光景に触れ、情緒豊かな旅の夜を過ごす様子を綴る。本書は、旅先で見聞した風景や温泉地での体験、静かな自然の中で耳にした鳥や河鹿の鳴き声などの情景を情感豊かに描き出す随筆である。
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一
旅は此だから可い――陽氣も好と、私は熟として立つて視て居た。
五月十三日の午後である。志した飯坂の温泉へ行くのに、汽車で伊達驛で下りて、すぐに俥をたよると、三臺、四臺、さあ五臺まではなかつたかも知れない。例の梶棒を横に見せて並んだ中から、毛むくじやらの親仁が、しよたれた半纏に似ないで、威勢よくひよいと出て、手繰るやうにバスケツトを引取つてくれたは可いが、續いて乘掛けると、何處から繰出したか――まさか臍からではあるまい――蛙の胞衣のやうな管をづるりと伸ばして、護謨輪に附着けたと思ふと、握拳で操つて、ぶツ/\と風を入れる。ぶツ/\……しゆツ/\と、一寸手間が取れる。
蹴込へ片足を掛けて待つて居たのでは、大に、いや、少くとも湯治客の體面を損ふから、其處で、停車場の出口を柵の方へ開いて、悠然と待つたのである。
「ちよツ、馬鹿親仁。」と年紀の若い、娑婆氣らしい夥間の車夫が、後歩行をしながら、私の方へずつと寄つて來て、
「出番と見たら、ちやんと拵ツて置くが可いだ。お客を待たして、タイヤに空氣を入れるだあもの。……馬鹿親仁。」と散溢れた石炭屑を草鞋の腹でバラリと横に蹴つて、
「旦那、お待遠樣づらえ。」何處だと思ふ、伊達の建場だ。組合の面にかゝはる、と言つた意氣が顯れる。此方で其の意氣の顯れる時分には、親仁は車の輪を覗くやうに踞込んで、髯だらけの唇を尖らして、管と一所に、口でも、しゆツ/\息を吹くのだから面白い。
さて、若葉、青葉、雲いろ/\の山々、雪を被いだ吾妻嶽を見渡して、一路長く、然も凸凹、ぐら/\とする温泉の路を、此の親仁が挽くのだから、途中すがら面白い。
輕便鐵道の線路を蜿々と通した左右の田畑には、ほの白い日中の蛙が、こと/\、くつ/\、と忍笑ひをするやうに鳴いた。