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TORENDIA

雨の上高地

本文約4,400字 ・ 読了時間 約9分

あらすじ(AIが作成しました)

昭和九年九月、筆者は友人から勧められた上高地へ向かう。小雨が降るなか梓川の渓谷を進み、焼岳の色彩に感銘を受けつつ現地に到着する。帝国ホテルを眺め、宿で名物の岩魚料理などを楽しんだ。翌日は明神池や田代池を巡り、悪天候に翻弄されながらもこの地を武陵桃源のような場所と称える。本作は雨の上高地での滞在記を通じ、深山の自然と風景が持つ美しさや合理的とされる発電所に対する筆者の独自の感懐を綴るものである。

寺田寅彦

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🎧 雨の上高地 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

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山好きの友人から上高地行を勧められる度に、自動車が通じるやうになつたら行くつもりだと云つて遁げてゐた。その言質をいよ/\受け出さなければならない時節が到来した。昭和九年九月廿九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行つて汽車を待つてゐると、湿つぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣はれたが、塩尻まで来るととうとう小雨になつた。松本から島々までの電車でも時々降るかと思ふと又霽れたりしてゐた。行手の連峯は雨雲の底面で悉くその頂を切り取られて、山々はたゞ一面に藍灰色の帷帳を垂れたやうに見えてゐる。その幕の一部を左右に引きしぼつたやうに梓川の谿谷が口を開いてゐる。それが、未だ見ぬ遠い彼方の別世界へこれから分けのぼる途中の嶮しさを想はせるのであつた。

島々からのバスの道路が次第々々に梓川の水面から高く離れて行く。或地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だと云つて女車掌が紹介する。それが六百尺であることが恰もその事掌のせゐでもあるかのやうに何となく、得意気に聞こえて面白い。

近在の人らしい両親に連れられた十歳位の水兵服の女の子が車に酔うて何度ももどしたりして苦しさうであるが、苦しいとも云はずに大人しく我慢してゐるのが可愛想であつた。白骨温泉へ行くのださうで沢渡で下りた。子供も助かつたであらうが自分もほつとした。もどしたものを母親が小さな玩具のバケツへ始末してゐた。そのバケツの色彩が妙に眼について今でも想出される。

途中で乗客が減つたのでバスから普通の幌自動車に移された。その辺から又道路が川の水面に近くなる。河の水面のプロフィルが河長に沿うて指数曲線か雙[#「雙」は底本では「隻」]曲線のやうな恰好をしてゐる。その脇に沿うて略同じ勾配の道路をつけるから、自然に途中で道と河の高度差の最大な処が出来るのであらうかと思はれた。

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