さまよえるユダヤ人の手記より
本文約5,100字 ・ 読了時間 約11分
あらすじ(AIが作成しました)
実験室での油の蒸留、電車で見つけた玉虫、アイスクリームの香りが呼び覚ます追想、橋の袂に捨てられる子猫といった日常の些細な出来事を通して、生活の合間にふと頭をよぎる思索や過去の記憶を綴る随筆。暑さと涼しさの共存や、過去が現代にこびり付いているという気づきなど、日常の光景から人生の特異点や物理学史に至るまで、多角的な視点から物事の背後にある意味を考察し、著者の思索の遍歴を収める。
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一 涼しさと暑さ
この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮えるのを見るのは実は案外に爽快なものである。
暑い時に風呂に行って背中から熱い湯を浴びると、やはり「涼しい」とかなりよく似た感覚がある。あれも同じわけであろう。
涼しいというのは温度の低いということとは意味が違う。暑いという前提があって、それに特殊な条件が加わって始めて涼しさが成立するのである。
先年塩原の山中を歩いていた時に、偶然にこの涼しさの成立条件を発見した。とその時に思ったことがある。蒸されるような暑苦しい谷間の坂道の空気の中へ、ちょうど味噌汁の中に入れた蓴菜のように、寒天の中に入れた小豆粒のように、冷たい空気の大小の粒が交じって、それが適当な速度でわれわれの皮膚を撫でて通るときにわれわれは正真正銘の涼しさを感じるらしい。
暑中に冷蔵庫へ這入った時の感じは、あれは正当なる涼しさとは少しちがう。あれは無意味なる沈鬱である。涼しさの生じるためには、どうも時間的にまた空間的に温度の短週期的変化のあることが必要条件であるらしい。
しかし、寒中に焚火をしてもいわゆる「涼しさ」は感じないところを見ると、やはり平均気温の高いということが涼しさの第一条件でなければならない。そうしてその平均気温からの擬週期的変化が第二条件であると思われる。この変化は必ずしも低温の方向に起らなくてもいいということは、暑中熱湯を浴びる実験からも分ると思う。たぶん温度が急激に降下するときに随伴する感覚であって、しかもそれはすぐに飽和される性質のものであるから、この感覚を継続させるためには結局週期的の変化が必要になると考えられる。
子供の時分、暑い盛りに背中へ沢山の灸をすえられた経験があるが、あの時の背中の感覚にはやはり「涼しさ」とどこか似通ったある物がある。これはここの仮説を裏書する。