TRENDIA CLASSIC

旧聞日本橋

長谷川時雨

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堀留――現今では堀留町となっているが、日本橋区内の、人形町通りの、大伝馬町二丁目後の、横にはいった一角が堀留で、小網町河岸の方からの堀留なのか、近い小舟町にゆかりがあるのか、子供だったわたしに地の理はよく分らなかったが、あの辺一帯を杉の森とあたしたちは呼んでいた。

土一升、金一升の土地に、杉の森という名はおかしいようだが、杉の森稲荷の境内は、なかなか広く、表通りは木綿問屋の大店にかこまれて、社はひっそりしていた。そのかみの東国、武蔵の国の、浅草川の河尻の洲のなかでも、この一角はもとからの森であったのかもしれない。ともかく、かなりの太さの杉の木立ちも残っていた。

社の裏の方は、細い道があって、そこには玉やという貸席や、堅田という鳴物師などが住んでいる艶めかしい空気があった。ずっと前には、この辺も境内であったのであろう。それゆえか、その細道には名がなくて、小路を出たところの横町がいなり新道というのだった。以前の葺屋町、堺町の芝居小屋への近道なので、その時分からこの辺も、そんな柔らかい空気の濃厚な場所だったかもしれない。そしてまた、この杉の森は、享保のころ、芝居でする『恋娘昔八丈』や『梅雨小袖昔八丈』などの白木屋お駒――実説では大岡裁判の白子屋お熊の家のあった場所であり、お熊の家は材木商であったのだから、堀留は、深川木場の材木堀のように、材木を溜めておく置場にもなっていたのかもしれない。

こんな、あぶなっかしい地理より、ここに『江戸名所図絵』がある。これによると、杉の森稲荷社所在地は、新材木町で、社記によれば、相馬将門威を東国に振い、藤原秀郷朝敵誅伐の計策をめぐらし、この神の加護によって将門を亡したので、この地にいたり、喬々たる杉の森に、神像を崇め祀ったのだとある。

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