死者の書
本文約62,100字 ・ 読了時間 約125分
あらすじ(AIが作成しました)
永い眠りから目覚めた男は、自身の正体や死の記憶を辿る中で、耳面刀自への思慕を募らせる。一方、奈良の横佩墻内を訪れた家持は、静まり返った館に往時を偲ぶ。同じ頃、郎女は萬法藏院で見た幻影を想い、曼陀羅を描き始める。筆が進むにつれ、その色彩豊かな絵画の中に尊い姿が浮かび上がり、それを見つめる女たちに不思議な光景が立ち現れる。時を超えた記憶と信仰、そして人の情念が交錯する中で、物語は静かに展開してゆく。
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一
彼の人の眠りは、徐かに覺めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて來るのを、覺えたのである。
した した した。耳に傳ふやうに來るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて來る。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覺をとり戻して來るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見す瞳に、まづ壓しかゝる黒い巖の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀。兩脇に垂れさがる荒岩の壁。した/\と、岩傳ふ雫の音。
時がたつた――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで來る。長い眠りであつた。けれども亦、淺い夢ばかりを見續けて居た氣がする。うつら/\思つてゐた考へが、現實に繋つて、あり/\と、目に沁みついてゐるやうである。
あゝ耳面刀自。
甦つた語が、彼の人の記憶を、更に彈力あるものに、響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに來たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もつと/\長く寢て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から、覺めた今まで、一續きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
古い――祖先以來さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が斷れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるやうな、疼きを覺えた。……さうして尚、ぢつと、――ぢつとして居る。射干玉の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの樣に、嚴かに、だが、すんなりと、手を伸べたまゝで居た。
耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓つて、過ぎた日の樣々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯れたからだに、再立ち直つて來た。