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TORENDIA

女人創造

本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

男と女の本質的な違いを論じ、文学において女性をいかに描くべきかという作家の思索を綴る。現実の女性を正確に模写することの是非、理想的な女性観の追求、そして自らが小説を書く過程で気づいた女性を描く際の秘法について言及する。男が観念的な女性像を必死に創り上げることの滑稽さや、作家としての矜持と葛藤を通じ、創作の本質に迫る試みである。

太宰治

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🎧 女人創造 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

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男と女は、ちがうものである。あたりまえではないか、と失笑し給うかも知れぬが、それでいながら、くるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみたりしているのだから、あまり笑えまい。男と女はちがうものである。それこそ、馬と火鉢ほど、ちがう。思いにふける人たちは、これに気がつくこと、甚だおそい。私も、このごろ、気がついた。名前は忘れたが或る外国人のあらわしたショパン伝を読んでいたら、その中に小泉八雲の「男は、その一生涯に、少くとも一万回、女になる。」という奇怪な言葉が引用されていたが、そんなことはないと思う。それは、安心していい。

日本の作家で、ほんとうの女を描いているのは、秋江であろう。秋江に出て来る女は、甚だつまらない。「へえ。」とか、「そうねえ。」とか呟いているばかりで、思索的でないこと、おびただしい。けれども、あれは、正確なのである。謂わば、なつかしい現実である。

江戸の小咄にも、あるではないか。朝、垣根越しにとなりの庭を覗き見していたら、寝巻姿のご新造が出て来て、庭の草花を眺め、つと腕をのばし朝顔の花一輪を摘み取った。ああ風流だな、と感心して見ていたら、やがて新造は、ちんとその朝顔で鼻をかんだ。

モオパスサンは、あれは、女の読むものである。私たち一向に面白くないのは、あれには、しばしば現実の女が、そのままぬっと顔を出して来るからである。頗る、高邁でない。モオパスサンは、あれほどの男であるから、それを意識していた。自分の才能を、全人格を厭悪した。作品の裏のモオパスサンの憂鬱と懊悩は、一流である。気が狂った。そこにモオパスサンの毅然たる男性が在る。男は、女になれるものではない。女装することは、できる。これは、皆やっている。ドストエフスキイなど、毛臑まるだしの女装で、大真面目である。ストリンドベリイなども、ときどき熱演のあまり鬘を落して、それでも平気で大童である。

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