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TORENDIA

俗天使

本文約7,900字 ・ 読了時間 約16分

あらすじ(AIが作成しました)

ミケランジェロの「最後の審判」にある聖母子像に心打たれた筆者は、創作への意欲を失い、自身の経験を振り返る。過去に触れた女性たちのささやかな好意を、自嘲を交えつつ「陋巷のマリヤ」と名付け、恥辱を告白する意味を思索する。終盤では、姪からの手紙を通じて、日々の生活の中にある自己嫌悪や、変わらぬ弱さを抱えながら生きる日常を描く。

太宰治

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晩ごはんを食べていて、そのうちに、私は箸と茶碗を持ったまま、ぼんやり動かなくなってしまって、家の者が、どうなさったの、と聞くから、私は、あ、厭きちゃったんだ、ごはんを、たべるのが厭きちゃったんだ、とそう言って、そのことばかりでは無く、ほかにも考えていたことがあって、それゆえ、ごはんもたべたくなくなって、ぼんやりしてしまったのであるが、けれども、それを家の者に言うのは、めんどうくさいので、もうこのまま、ごはんを残すから、いいかね、と言ったら、家の者は、かまいません、と答えた。傍にミケランジェロの「最後の審判」の大きな写真版をひろげて、そればかりを見つめながら箸を動かしていたのであるが、図の中央に王子のような、すこやかな青春のキリストが全裸の姿で、下界の動乱の亡者たちに何かを投げつけるような、おおらかな身振りをしていて、若い小さい処女のままの清楚の母は、その美しく勇敢な全裸の御子に初い初いしく寄り添い、御子への心からの信頼に、うつむいて、ひっそりしずまり、幽かにもの思いつつ在る様が、私の貧しい食事を、とうとう中絶させてしまった。よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瓏なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれて在る。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであった。また、この母は、なんと佳いのだ。私は、幼時、金太郎よりも、金太郎とふたりで山にかくれて住んでいる若く美しい、あの山姥のほうに、心をひかれた。また、馬に乗ったジャンダアクを忘れかねた。青春のころのナイチンゲールの写真にも、こがれた。けれども、いま、眼のまえに在るこの若い、処女のままの母を見ると、てんで比較にも何も、なりやしない。この母は、怜悧の小さい下婢にも似ている。清潔で、少し冷たい看護婦にも似ている。けれども、そんなんじゃない。軽々しく、形容してはいけない。看護婦だなんて、ばかばかしいことである。これは、やはり絶対に、触れてはならぬもののような気がする。誰にも見せず、永遠にしまって置きたい思いである。「聖母子」私は、其の実相を、いまやっと知らされた。たしかに、無上のものである。ダヴィンチは、ばかな一こくの辛酸を嘗めて、ジョコンダを完成させたが、むざん、神品ではなかった。神と争った罰である。魔品が、できちゃった。ミケランジェロは、卑屈な泣きべその努力で、無智ではあったが、神の存在を触知し得た。どちらが、よけい苦しかったか、私は知らない。けれども、ミケランジェロの、こんな作品には、どこかしら神の助力が感じられてならぬのだ、人の作品でないところが在るのだ。ミケランジェロ自身も、おのれの作品の不思議な素直さを知るまい。ミケランジェロは、劣等生であるから、神が助けて描いてやったのである。これは、ミケランジェロの作品では無い。

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