野ざらし
本文約84,900字 ・ 読了時間 約170分
あらすじ(AIが作成しました)
電車内で聞いた奇妙な名前に違和感を覚えつつ、佐伯昌作は親友である片山禎輔の家を訪れる。かつて夢を語り合った禎輔の妻への冷淡な態度や、突然の攻撃的な語調に昌作は戸惑い、自身の抱える九州の炭坑への移住と女性関係という二つの重圧に苦しむ。彷徨の末に再び片山の家へ戻った昌作は、自身の抱える憂鬱と対峙し、すべてを捨てて炭坑で働くという決意を伝える。
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一
「奇体な名前もあるもんですなあ……慾張った名前じゃありませんか。」
電車が坂道のカーヴを通り過ぎて、車輪の軋り呻く響きが一寸静まった途端に、そういう言葉がはっきりと聞えた。両腕を胸に組んで寒そうに――実際夕方から急に冷々としてきた晩だった――肩をすぼめていた佐伯昌作は、取留めのない夢想の中からふと眼を挙げて見ると、印半纏を着た老人の日焼した顔が、髭を剃り込んだをつき出し加減にして、彼の横から斜上の方を指し示していた。其処には、車掌と運転手と二つ並んだ名札の一つに、木和田五重五郎という名前が読まれた。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢が突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。