怒りの虫
本文約11,400字 ・ 読了時間 約23分
あらすじ(AIが作成しました)
温厚な性格だった木山宇平は、ある時期から些細なことで激昂するようになり、周囲から「怒りの虫」に巣くわれたと見なされる。彼は日常的な言い間違いや上衣の袖口をめぐる議論で荒々しく振る舞い、私的な集会や家庭内でも周囲との摩擦を繰り返す。身体的な不調や記憶の減退にも苦しむ中、愛人との葛藤や仕事上の煩わしさにさらされ、憤慨しては飲酒に耽る日々を送っていた。やがて彼は、自身の不調を認めつつも突如として静かにその生を終える。
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欝ぎの虫、癪の種、さまざまなものが、人間のなかに住んで、正常な感情を引っ掻きまわすと言われているが、ここに、木山宇平のなかには怒りの虫がいつしか巣くったと、周囲の人々から見られるようになった。彼は元来、至って温厚な性質だったのだが、近頃、なにかにつけて腹立ちっぽくなったのである。
外出に際して、玄関で靴をはいた後、ちょっとポケットにさわってみ、小首をかしげ、大きな声で怒鳴った。
「ふきん、ふきん。」
八重子夫人と女中が、見送りに出ていたが、何のことかよく分らなかった。
「ふきんだ。」と木山はまた言った。
もっとも、彼は食卓で、必ず布巾を用意させておく習慣だった。茶とか汁物とか、一滴でも卓上にたれると、すぐに布巾で拭いた。然し玄関での布巾は異例だ。それでも女中は駆けだして、布巾を一つ持って来た。木山はそれを受取ろうとしたが、手を引っこめて、怒鳴った。
「ばか。布巾をどうするんだ。ハンケチだ。」
「あら、」八重子夫人が答えた。「ハンケチは出しておきましたが……。」
いつも、洋服に添えてハンケチは出してあったのである。
木山は苛ら苛らしていた。
「よろしい。途中で買う。」
荒々しい見幕で出かけていった。
後で分ったことだが、ハンケチはやはりポケットにはいっていた。木山自身の、言い違いと思い違いに過ぎなかった。だが、彼が怒ったのは事実だった。怒ってそしてあとはけろりとしていた。
丁度、その日の夕方のことだが、一ヶ月半ばかりのアメリカ旅行から帰ってきた川村を中心に、懇意な社交仲間だけの集会が、丸ノ内の山水楼で催された。私的な集りだけに、簡単な挨拶があったきりで、あとはあちこちでの勝手な放談となった。木山宇平は酒瓶を前にして、いつまでも飲んでいた。支那料理のこととて、一定のコースがあるが如くなきが如く、料理の鉢はたくさん卓上に残っているし、木山の酒好きは周知のことで、極めて自然な情況だった。
その木山が、突然、憤慨しだしたのである。
彼は腕を突き出し、上衣の袖を指し示しながら、大きな声で叫んだ。