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TORENDIA

わが思想の息吹

本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

自伝的要素を持つ作品群において、事実の単なる再現ではなく、自身の思想や生き方を反映させた創作手法を論じる。作者は、小説における事実の取捨選択や登場人物の仮名化といった作為的な構成こそが、自身の思想を形作る「いたわり」を体現していると説く。過去の出来事と自身の生き方との対決を通じて、事実の背後に潜む思想の息吹を読み解くよう読者に促す一編。

坂口安吾

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🎧 わが思想の息吹 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。

この作品を書いたのは、去年の五月なかばから六月なかばまで、一ヶ月あまりかかり、百十枚ほどの作品なのだが、色々と悪い条件が重なって、珍しく、苦労を重ね、長い時間かかってしまった。病院へ泊りこんで、病人の枕元で書いていたのであるが、ちょうど、そういうさなかの六月六日ふと思いたって、握り飯をぶらさげて、木村塚田将棋名人戦の最終回を見物にでかけた。

木村名人が名人位を転落するまことに何か最も充実した一つの終滅、人間の臨終よりも慟哭にみちた悲劇をみつめたのであるが、その印象の強烈さは、おのずから「散る日本」を書かずにはいられなかった。「青鬼の褌を洗う女」を終ると同時に、すぐ書きあげたのである。

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。

このことは、私の自伝的な作品に就ても云えることで、たとえば「二十七」は河上徹太郎とか、中原中也とか、実在の人が登場するけれども、そして、あそこに描かれていることに偽りはないのであるが、然し、それゆえ、これを実話と見るのは間違っている。これは小説なのである。

なぜなら、あれは、いわゆる私小説とは趣きを異にしている。私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。

だから、何を書いたか、何を選びだして、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。

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