男女の交際について
本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
戦後の混迷する社会状況において、男女の交際や恋愛がどのようにあるべきかを論じる。外的な道徳や禁止事項に頼るのではなく、個々人が自省と教養を深め、「いかに生きるべきか」という自己の生活態度を確立することの重要性を説く。青春時代の夢幻的な恋愛から抜け出し、孤独という現実を直視した上で、各自が独自の人生を自らの責任において設計し、真剣に生きることこそが人間としての生活の向上につながると説く。
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近ごろの世道人心が堕落タイハイしているとか道義が地におちたとか慨嘆するのは当らない。
昔の平和の時代に比較して人の心だけを言うのが間違いで、このインフレ時代であり、住宅難、動物的雑居生活、停電、食糧難、物資難、交通難、おまけにそこに住む青年たちは戦場へ追いやられて心ならずも人殺しを稼業にしてきた人々であり、他の人々は空襲火災に追いまくられて家財や肉親を失ったような人々である。これだけの条件の下でこれだけの秩序が保てれば見上げたもので、日本人のたのもしさ、力強さに気づくことを知らないようでは、その人の方が暗愚であり、つまり敗戦と共に亡びて然るべき誤れる憂国者、誤れる道徳家、唯我独尊的愛国自認者であるにすぎない。
私はむしろこの悪条件の下で、却って秩序が保たれすぎるのじゃないかと思って、不安になることが多い。
戦争と云えば戦争、民主々義と云えば民主々義、万事お上にまかせてクルリと変るばかりで、犬のように従順であるというだけ、その軽薄な気質が現下の秩序のもとで、そしてそういう人々に限ってやたらに道義とかなんとか他人のお行儀のことばかり気にかける。つまり自分がないからである。自省がない。自分の力で物を本当に考えてみる、それがないのである。
どんな兇悪な犯罪でも、たゞれた愛慾でも、我々がもし良く考える心をもつなら必ず自分の心にも同じ犯罪者の血を見出す筈で、いかなる神の子といえども変りはない。キリストも釈迦もそうで、いかなる犯罪も悪徳も犯しかねない罪の子という自覚から生れてきたものがその宗教である。小平も樋口も我々の心に住んでおり、璽光信者の狂態も同じ芽が万人の心に必ずある。全ての人が犯罪者となり狂人となる素質を持っており、外部条件によって、そうなる。我々は人をそしり、笑う前に、己れを知り、そして外部条件を考えることを知らねばならぬ。