五月の詩
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あらすじ(AIが作成しました)
首を切られても歩く武士の伝説を題材に、笑いの欠如した武士道の形式的な厳格さと、そこに潜む日本人の精神性や芸術表現について綴る。船長の自裁に際し、その妻が詠んだ和歌を引用しながら、論理や標語で日本精神を定義しようとする風潮に反論し、文学的教養に裏打ちされた真の日本的な表現の在り方を論じる。町人文学と武士道の関わりや、日本人の内に流れる矛盾に満ちた美意識を考察し、日本という国の特異な伝統と精神を浮き彫りにする。
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昔、武士が三四人集つた話の席で、首をはねられて、首が胴を放れてから歩くことが出来るかどうか、といふ話がでた。先づ歩くことは出来ないだらうと外の者が言ひ合つてゐるのに、たつた一人、いや、歩くことが出来る、と頑張つた男がある。議論の果、ぢや、実際出来るかどうかやつてみようといふことになり、殿様の御前で、たつた一人頑張つたといふ男の首をはねて、歩くかどうかためす事になつた。ところが、この頑固な男が、首が落ちてから、とにかく二足ぐらゐは歩いたといふ話なのだ。この男は死んだけれども大変殿様の御意にかなひ、子孫は沢山の加増にあづかつたといふことだ。
この話は多少違つてゐるかも知れぬ。僕は十八九ぐらゐ以前、たしか森鴎外の小説にこの話を読んだと記憶してゐるのである。つい近年まで「都甲太兵衛」と勘違ひしてゐた。先日鴎外の本を探してみたが、どうしても、この話が出てこない。案外、露伴とか、或ひは全然思ひもよらぬ別の人の小説であつたかも知れぬ。
僕がどうしてこの話をハッキリ覚えてゐるかと言ふと、中学時代からの親友で後に発狂して廃人になつた辰雄といふ友達がゐて、僕が或日別の友達と口論して真冬のプールを二百米泳げるかどうかといふので、僕は泳いでみせると云つて大いに威張つた。泳がずに済んだけれども、これを聞いてゐた辰雄が、この小説を読んでごらん、と言つて、僕に読ませた小説なのである。中学時代の話だ。だから却々忘れられない小説なのだ。
昔の武士は辛いものだと思つた。冬のプールを泳ぐぐらゐは意地を張るけれども、首を切られても歩いてみせるなどと、いくら僕が馬鹿でも、そんな意地は張らぬ。尤も、首が落ちてからでも二足ぐらゐ歩けるだらう、といふぐらゐのことは言ひ張るかも知れぬが、そこからイキナリ、ぢやお前の首を切るから歩いてみろ、と言ふのは話が無茶だ。冗談言ふな、と言つて、笑つて話は済む筈だけれども、笑つて済ます訳には行かず、どうしても首を切られて歩いてみせなければ済まなかつた特殊な環境といふものは、変なものだ。
首を切られた話には、落語に、かういふのがある。