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TORENDIA

講談先生

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

天性模倣癖があり影響を受けやすい著者が、歴史小説の執筆にあたり取り入れた講談の技法について論じる。フランス写実派の技法に対し、語り手の性格を排して事実そのものが物語る講談の口調に可能性を見出し、スタンダールの手法とも比較しながら考察する。事物の本質を捉え、主題を明確にするための手法としての小説技法を綴り、自らの創作における語り口への考え方を示す。

坂口安吾

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🎧 講談先生 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

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僕は天性模倣癖旺盛で、忽ち人の感化を受けてしまふ。だから、人の影響はのべつ受けてばかりゐて、数へあげればキリがない。けれども、この人には負けたくない、といふやうな敵意を持つ場合もあるもので、「この人の作品を読むと惹きこまれるから、もう読むまいと決心するやうなこともあつた。これが本当の影響を与へた人かも知れないが、かういふ本当の書斎の中へは他人を入れたくないから、僕は語らない。

僕は今書いてゐる歴史小説に、かなり多く「講談」から学んだ技法をとりいれてゐる。講談の技法を小説にとりいれたら、と考へたのは十年ぐらゐ昔からのことで、それは、フランス・写実派の技法が、僕の観念とどこかしら食ひ違ふところから、なんとなく心を惹かれ始めたのである。

写実、つまり、文字で描くといふことは、トリビヤリズムに堕し易く、思ふことの中心を逸することが多い。小説は元来「語る」べきもので、第一に、さう考へた。語るやうに書く、といふのは当然の話だけれども、僕の言ふのは別の意味で、「講談」のやうに、と言ふことだ。講談は語る人の性格があんまり出ない。フランス風の写実は、語り手の性格が出すぎて、事物の実体をくらまし易いと思つた。

近頃の例で言へば何々参謀談といふ作戦談のやうなものがそれで、あそこにも語る人の性格は失はれ、事実そのものが物語るやうな力になつてゐる。

僕がこのことに具体的に気がついたのはスタンダールの小説を読んだときで、スタンダールが、いはゞ、外国的講談口調の語り手なのである。スタンダールは描写や説明といふことを、やらない。

日本の講談には語り手の性格がないやうに、語られてゐる人物にも性格がない。善玉悪玉の型があるばかりである。これは演者の教養や観点が固定してゐるからで、かういふ最悪の欠点は学ぶ必要がないけれども、然し、之を逆に言ふと、スタンダールも型だけしか書いてゐないのだ。

だが、スタンダールは常に創作し、進歩する。新らしい型が生れてゐる。之だけが講談と違ふ。尤も、これ一つ違ふだけで、月とスッポンの違ひになる。

講談それ自体は馬鹿らしいものだけれども、我々は、どこから何を学びとつても、値打には変りがない。

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