TRENDIA CLASSIC
良友悪友
久米正雄
1 / 14
「失恋が、失恋のまゝで尾を曳いてゐる中は、悲しくても、苦しくても、口惜しくつても、心に張りがあるからまだよかつた。が、かうして、忘れよう/\と努力して、それを忘れて了つたら、却つてどうにも出来ない空虚が、俺の心に出来て了つた。実際此の失恋でもない、況んや得恋でもない、謂はゞ無恋の心もちが、一番悲惨な心持なんだ。此の落寞たる心持が、俺には堪らなかつたんだ。そして今迄用ゐられてゐた酒も、失恋の忘却剤としては、稍々役立つには役立つたが、此の無恋の、此の落寞たる心もちを医すには、もう役立ちさうもなく見えて、何か変つた刺戟剤を、是非必要としてゐたんだ。そこへY氏やTがやつて来て、自分をあの遊蕩の世界へ導いて行つた。俺はほんとに求めてゐたものを、与へられた気がした。それで今度は此方から誘ふやうにして迄、転々として遊蕩生活に陥り込んで行つたんだ。失恋、――飲酒、――遊蕩。それは余りに教科書通りの径路ではあるが、教科書通りであればあるだけ、俺にとつても必然だつたんだ。況んや俺はそれを概念で、失恋をした上からには、是非ともさう云ふ径路を取らなければならぬやうに思つて、強ひてさうした訳では決してない。自分が茲まで流れて来るには、あの無恋の状態の、なま/\しい体験があつての事だ。……」