知識と政治との遊離
本文約5,600字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
知識人が政治に対して抱く絶望や遊離の歴史的背景と構造を論じる。著者は知識人を、理想へ逃避するプラトン型、現実を諦観するディオゲネス型、権力へ適応するアリストテレス型、信念に殉じるソクラテス型の四類型に分類して考察する。また、知識が政治から切り離されてきた文化機構上の問題と、観察を重んじる哲学的方法論の誤謬を指摘し、知識が組織的共同研究として民主的な政治に奉仕することの必要性を展望する。
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現在往々にして、知識層が政治に期待を失って、その行動の方向を失わんとしつつあると伝えられている。それは敗戦再出発の歴史的瞬間にある日本民族にとって、寒心すべき事態であるといえよう。
何故、知識層が、政治より絶望し、遊離し、やがて現実そのものも自棄的に放擲するような事となるのであろうか。案外その理由と歴史は深くかつ遠いのであるまいか。その基礎と様態について省みてみたい。
私は政治から遊離するところの知識人を、ちょっと冗談めきはするが、ギリシャに例をとって大ざっぱにプラトン、ディオゲネス、アリストテレス、ソクラテスの四つの型にわけて考察の便宜にしたい。
プラトン型(敗退的遊離) プラトンの例にみる如く、政治への熱情やみがたく、革命運動に参画し失敗、奴隷に売られ、その身代金の余分でアカデメイアという彼の学園をつくって、完全に政治より遊離して、理想の国を夢みて一生を終ったのである。彼の国家論は敗退せる政治的知識人が、実践より手を引いて、論理の上にのみそれを辿っている一つの完全な例である。しかし、それが一つの典型的遊離であることは論をまたない。多少の差はあれユートピストはかかる遊離の中に生き、東方の聖人にもその多くを見るのである。孔孟の教えもニュアンスの差こそあれ、政治に参画できず、改革実践にまで展開せず、学園的理論に止まった限りの人々はこの遊離の類型の中に止まった人々である。孔子などは、この遊離に深い嘆声を発しつづけた人である。『論語』ほど感嘆詞の多い哲学書は世界にあるまい。知識が政治に吐いた嘆きの塊みたいな本である。この嘆きがもう一歩遠心的に、孔子も誘惑された如く、「詠じて帰らん」とふみ出してしまうと、一つの限界を越えて他の類型となるのである。