新しい神話を追い求めつつ
本文約600字 ・ 読了時間 約2分
あらすじ(AIが作成しました)
十歳の少女が投げかけた神の所在に関する問いを起点に、大人が子供の純粋な疑問と向き合う意義を論じる。既存の神話や哲学に寄りかかるのではなく、歴史の中で成長しつつある子供の新しい夢や人間像を、大人が真剣になって共に追い求める必要性を説く。大人が子供の問いを切り捨てず、自らも人間として至純になる過程こそが、新しい神話や人間像の探究へとつながることを提示する評論である。
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夜の家庭の雑談の中で、十歳の女の子が、「神様はほんとにあるの、地球の外は宇宙でしょう。神様は何処に棲むの?」と問うた。
皆はっと顔を見あわせて、一瞬たじろいだ。そう簡単に答えられる問いではない。
死んだ母が天にいると先達まで固く云いきっていた十歳の子に芽生えた疑問なのである。
どの大人も、この至純な問いをつづけることを怠り、その問いそのものを掌から落しているにしかすぎないのである。それは成長ではなくして、只堕落にしかすぎないのである。
ルソーは「エミール」で、五歳の子をほんとうに五歳たらしめよ、十歳の子をほんとうに十歳の子供たらしめよ。そのとき、ほんとうの二十歳の青年、人間が生れるであろう、と云っている。
十歳の子供の問いと、夢は、大人のいかなる饒舌な哲学よりも、至純で具体的で人間的であるに違いない。只その表現の手段と技術がないだけである。
かくて大人の書く童話は、子供への愛に加うるに、洗練さえたる技術と回顧の中から生れて来るべきである。ところがこの当の子供は歴史の中に成長しつつある。大人の回顧がそれに堪えないまでに子供の歴史の中での成長が伸びつつあることを深く畏れ、心を用うるべきである。
新しい時代に、新しい夢と、神話と、人間像が、子供の中にも巨大に成長しつつある。それをこそ、大人は真剣になって子供達と共に追い求めるべきである。
それは大人自身が、人間として、自らに至純になることでもある。
完