TRENDIA CLASSIC

レンズとフィルム

中井正一

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引金を引くような心持ちで指でふれる時、フィルムはすでに回転している。レコーダーは五フィート、十フィートと記録していく、重い感じの機械音を撮るものにとっては、ある大きな組織の中に巻き込まれている感じである。一コマ一コマの構図に眼は繰り入れられてはいるけれども、心はより多くの関心を、レンズのシボリと光線に配られている。そして、さらに生フィルムの一つの性格について、常に軽い実験的興味と親しみを感じている。現像液の中にすら、自分もが半分涵った思いである。

そして、しかも、今の三フィートは、プランにしたがって、どこに位置づけられるべきかを感じている時、それは緊まった、キレた感情とある部署感をともなっている。今、もぎとっている現実の一片は、今から描かんとするシナリオの、未来の断片、構成の一要素である。実験されつつある組織の一エレメントであり、その見えざる網の一紐結として、その一コマは喜びを運んでいる。

かつて画家は、その一コマの完成に一人格を投げつけた。今は、その一コマをレンズに託して、そこより出発し、人格が組織の構成体、一つのオルガンとなったように、一コマそれ自身が全組織の一要素となっている。キノキイのもつ喜悦は、このオルガナイズの情趣の上に在る。映画が絵画を引きはなすのはこの一点にある。一つは個性とカンヴァスであるに反して、他は個人がすでにその中に没入した性格と組織である。

映画の製作の過程が集団的であるのみならず、その形式そのものがすでに集団的である。

その過程とはその社会的集団的性格を意味する。そして、形式とは、その機械性とそれに加わる人間性との複合を意味する。換言すればいわばそれは、物理的集団的性格である。

レンズとフィルムと現像液ならびにそれを涵す光、それらのものの前に人の見る意味はかぎりない急転回と、躍進と、測りしれざる未来をもっている。それこそ物理的集団的性格の刺すような、時のかなたへの遠き視線を意味する。

われわれが、回転するフィルムのふるえを頬に感じながらファインダーを覗く時、胸をうつ一種の吸引は、その新しき視線への崩るるごとき没入としも思われる。

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