三日幻境
本文約7,000字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
七年前に政治活動の挫折から世俗を離れ、川口村の老人・龍子のもとへ身を寄せた経験を持つ著者が、再びその幻境を訪れる旅を綴る。かつての同志である大矢蒼海や龍子との再会を経て、山中での静謐な交流や名所への旅を通じて、自身の抱える不平や世俗的な煩悶を解消していく過程を描く。現実社会の喧騒から離れ、自然や古い知友との触れ合いの中で見出した精神的な満足と、そこでの深い思索を収めた紀行文である。
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(上)
人生何すれぞ常に忙促たる、半生の過夢算ふるに遑なし。悲しいかな、我も亦た浮萍を追ひ迷雲を尋ねて、この夕徒らに往事を追懐するの身となれり。
常に惟ふ、志を行はんとするものは必らずしも終生を労役するに及ばず。詩壇の正直男(ゴールドスミス)この情を賦して言へることあり。
I still had hopes, my long vexation past,
Hero to return――and die at home at last.
浮世に背き微志を蓄へてより、世路酷だ峭嶢、烈々たる炎暑、凄々たる冬日、いつはつべしとも知らぬ旅路の空をうち眺めて、屡、正直男と共に故郷なつかしく袖を涙にひぢしことあり。
われは函嶺の東、山水の威霊少なからぬところに産れたれば、我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇はねども、往時の産業は破れ、知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く疇昔を語るべき古老の存するなし。山水もはた昔時に異なりて、豪族の擅横をつらにくしとも思ずうなじを垂るゝは、流石に名山大川の威霊も半死せしやと覚て面白からず。「追懐」のみは其地を我故郷とうなづけど、「希望」は我に他の故郷を強ゆる如し。
回顧すれば七歳のむかし、我が早稲田にありし頃、我を迷はせし一幻境ありけり。軽々しくも夙少くして政海の知己を得つ、交りを当年の健児に結びて、欝勃沈憂のあまり月を弄し、花を折り、遂には書を抛げ筆を投じて、一二の同盟と共に世塵を避けて、一切物外の人とならんと企てき。今にして思へば政海の波浪は自から高く自から卑く、虚名を貪り俗情に蹤はるゝの人には棹を役ひ、橈を用ゆるのおもしろみあるべきも、わが如く一片の頑骨に動止を制し能はざるものゝ漂ふべきところならず。然れども我は実にこの波浪に漂蕩して、悲憤慷慨の壮士と共に我が血涙を絞りたりしなり。醜悪なる社界を罵蹴して一蹶青山に入り、怪しげなる草廬を結びて、空しく俗骨をして畸人の名に敬して心には遠けしめたるなり。この時に我が為めにこの幻境を備へ、わが為にこの幻境の同住をなせしものは、相州の一孤客大矢蒼海なり。