思想の領地は栄光ある天門より暗濛たる深谷に広がれり。羽衣を着けたる仙女も此領地の中に舞ひ、悪火を吐く毒鬼も此の裡に棲めり。思想の境地は実に天の与へたる自由意志の塲なり。美は醜と闘ひ、善は悪と争ふ、或は桂冠を戴きて此の舞台より歴史の或一隅に遷り去るあり、或は傷痍を負ふて永く苦痛の声を留むるあり。甲去れば乙来り、乙去れば丙又た来る。一往一来、頻又頻を極めて、而して宇宙は悠然として更に他の新客を待てり。プレトー去つて遠し、シヱーキスピーア去つて又た還らず、ウオーヅオルス逝けり、カアライル逝けり、ボルテーア逝き、バイロン逝けり。歴史の頁数は年毎に其厚さを加ふれど、思想界の領地は聊爾も減毀せらるゝを見ず。恰も是れ渡船に乗じて往来する人の面は常に異なれど、渡頭、船を呼ぶの声は尽くる時なきが如し。
日本をして明治あらしめたるも思想の力多ければなり。「明治」をして、過去の幾星霜の如く蜉蝣的の生涯を為さしめたるもの、抑も亦た思想の空乏に因するところ寡しとせんや。思想は駭風の如く、以て瓦石を飛ばすべし、思想は滋雨の如く、以て山野を潤ほすべし。国を建て家を興すもの渠なり、深く人心の奥を支配するものも渠なり。人間霊魂の第一の顧問は渠なり、渠の動くところに霊魂の自由なる運作あり。渠は人間の最上府を鎮護するの任を有せり。渠は斯の如く人間の最上府を囲繞して、而して人間の結托せる社会を鎮護せり。社会と名づけ、国家と呼ぶも、要するに個々人間の最上府が、自由の意志を以て相結托せる衆合躰に過ぎざるなり。帰着する所は一個の最上府なり、爰に総ての運命を形成せり、爰に総ての過去と、総ての未来とを注射せり、歴史は其過去を語り、約束は其の未来を談ず。而して真個に社会の、国家の、人間の精神たる此の最上府を囲繞し、其の運動を支配し、其の一是及び一非を左右するもの彼の「思想」なりとせば、其の威力の壮大なる、得て名状すべからざるものあるなり。