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TORENDIA

詩の将来について

本文約1,700字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

自由詩が普及から三十年を経て行き詰まりを見せる中、現代語そのものが持つ語彙の缺陷や助動詞の不適應性がその表現を無味單調に陥らせていると論じる。律格を棄て去った散文的な表現が発想を狭め、アマチュアの参入が芸術を停滞させた現状を指摘する。現代詩が散文に吸収されていく必然的な自壊作用を背景に、詩の将来に対する絶望感と、滅びゆくことへの率直な諦念を綴る。

蒲原有明

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🎧 詩の将来について / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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こゝに掲げた標題が私に課せられた難問である。私は答案に窮するより外はない。

近頃は社會萬般に亙つて何事も見透しがつきかねるといふ噂さである。詩も多分さうであらうことは、この出題によつても推測されるとほりに、私にも少しばかり思當りがないでもない。囘顧すれば自由詩が舊詩壇に取つて代つてから既に三十年にもなる。その上たとへ物々しい理論の矛を揮つたとはいへ、また多數の同士を率ゐたとはいへ、その登場はあまり安易に過ぎたのではなかつたらうか。今に及んで漸く行詰りが見られると言ふならば、それはむしろ自由詩のために長年月の幸運を逆によろこばねばならぬことであらう。

河童は水が頭の皿に充ちてゐる間は河童相應の能力を出し得るもので、その皿の水がこぼれてしまへば唯々非力をかこつのみであると言はれてゐる。實をいへば私もこの水をこぼされた河童同樣に自由詩時代の乾いた陸に放りあげられて懊惱したことは、これをこゝに告白する必要は更にない。

一世を風靡した自由詩にいつしか暮色が迫るのも致しかたない次第であるが、自由詩は然しながら普及したのである。現に街頭の宣傳ビラにも、新聞に載る化粧品の廣告にも、酒場や珈琲店のちらしにも、そこには現代が裸でよく踊つてゐる。あれはあれでよいのである。

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