諦めている子供たち
本文約2,300字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
雪深い新潟で生きる子供たちの独特な諦観と、その根底にある風土や気質を綴る。大人の生活苦を写し取り、自嘲やユーモアを交えて自分を表現する少年少女の姿を通じ、半年間雪に閉ざされる土地の過酷さと、遊ぶ町としての歴史が育んだ諦めの精神を考察する。また、屋外運動場を不要とする市民の気風や、食文化に見られる矛盾と良心的な一面にも触れ、この地特有の生活感や考え方を描き出している。
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雪の晩げに道を歩くと雪ジョロがでるすけオッカネぞとおらとこのオトトもオカカもオラたちに云うてオッカナがらすろも、オラそんげのこと信用しねわい。そらろもオレもオッキなってガキどもができると、そんげのこと云うてオッカナがらすかも知れねな。人間てがんはショウがねもんだて。そらすけオラいまから諦めてるて。
雪の夜道を歩くと雪女郎がでるから怖しいぞとオレのウチの父も母もオレたちに云ってこわがらすが、オレはそんなこと信用していない。けれどもオレも大きくなって子供ができると、そんなことを云ってこわがらすかも知れない。人間というものは仕様がないものだ。それだからオレはいまから諦めてるよ。
小学校四五六年生くらいの子供の言葉と思っていただけばよい。新潟県は土地々々で非常に方言がちがい新発田あたりだけはまるで仙台弁のように鼻にかかる少地域なぞが介在したりするが、いま書いたのは新潟市の方言だ。新潟の子供たちは小にしてすでに甚しく諦観が発達しており、こういう言い方をするのが決して珍しくはないのである。それというのが彼らのオトトやオカカが常にそういう見方や感じ方や言い方をしているからで、要するに先祖代々ずッとそうだということになる。
ここに方言を書いただけではとうてい皆さんにお分りにならないことが一ツあるが、新潟の方言にはまるで唄うような抑揚があって、是が非でも納得させたいと哀願しているような哀れさと同時に自分自身を小バカにし卑屈にしてもてあそんでいるような諦めとユーモアがある。
新潟市の盆唄は次の通り。
「盆らてがんね茄子の皮の雑炊ら。あんまテッコモリで鼻の頭をやいたとさ」
お盆だというのにオレのウチの食い物は茄子の皮の雑炊だとさ。あまり山盛りで鼻のさきを焼いたとさ。というわけだ。自分をわざとわるくいやらしく表現して笑わせてよろこぶ気風である。