砂をかむ
本文約1,000字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
五十歳で初めて子供を授かった著者は、自身をどう呼ばせるかに戸惑い、照れくささから「パパ」「ママ」という呼称を採用する。しかし、馴染みのない言葉を日常的に使うことへの違和感や、とっさに呼び間違える混乱が絶えない。やがて子供自身も誰がパパでママか判別できなくなり、両親を区別せず「パパママ」と呼ぶようになる。慣れない異国の言葉を家庭に持ち込んだことによる家庭内の滑稽な混乱と、拭えない居心地の悪さを綴る。
💰 この本を応援する(投げ銭)
五十ちかい年になってはじめて子ができるというのは戸惑うものである。できるべくしてできたというのと感じがちがって、ありうべからざることが起ったような気持の方が強いものだ。大そうてれくさい。お子さんは近ごろ、なぞと人に云われると、それだけでてれたりしてしまう。
そんなわけで、自分を子供になんと呼ばせるかということでは苦労した。お父さん、というのはてれくさくていけない。子供にお父さんなぞと呼ばれると、生きてる限りぞッとしなければならないような気持で、子供の生れたては気が滅入ってこまったものであった。日本では(たぶん外国でもそうらしいが)子ができると女房までにわかに亭主をお父さんと呼びかえるような習いがあるから、いろいろ思い合せて薄気味わるくなるばかりであった。
結局パパママというのを採用することにしたが、これはよその国の言葉だから、全然実感がなくてよい。陰にこもったところがない。子供や女房にパパとよばれても人ごとのようにサラサラしていて直接肌にさわられるようなイヤらしさがなくてよかった。
けれども、なにぶん五十にもなって生れてはじめて使いはじめた言葉であるから、使う方でも全然実感がわかないのである。父がパパで、母がママだというのは英語の本を読む時には間違う心配がないものだが、さて当人が日常実用するとなるとそうはいかないもので、自分のことをママと云ってしまったり、女房をパパと云ってしまったりで、混乱してしまう。一度その混乱がはじまると、それが意識にからむから、益々混乱がはげしくなる。五十の手習いはおそすぎるということをしみじみ味った次第である。