私の探偵小説
本文約1,800字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
戦時中の読書体験を起点に、探偵小説を作者と読者の知恵比べというゲームとして論じる。欧米の作品を範に、推理の成立に必要な条件や謎解きの流儀を提示する。また、日本における探偵小説の現状と課題を独自の視点で考察し、批評家と作家の思考プロセスの違いや、読者として望む作品の理想像を綴る。筆者自身の創作意欲についても言及し、論理的なパズルとしての物語の愉しみを追求する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
私は少年時代から探偵小説の愛好者であったが、日本で発行されたほぼ全部の探偵小説を読むに至ったのは戦争のおかげであった。
戦争中は酒も飲めなくなり、遊ぶ所もなくなり、雑誌もなくなって小説を書く当もなくなったから、残されたのは読書だけ。私はその頃「現代文学」という集りの同人であったが、この同人の中で探偵小説の愛好者が集って、犯人の当てっこをやりだした。
この方法は、解決のところを切りとったり、糸で縫いつけておいて、回覧して犯人の当てっこをする。平野謙が最も成績優秀で、大井広介、荒正人は怖るべき敵ではないようだったが、私は然し、犯人をピタリと当てたのは二ツぐらいしかなかった。
探偵小説作家と試合したら、とても勝てないだろうな、と平野名人も謙遜していたが、私はそうじゃないと思う。江戸川乱歩、木々高太郎氏等でも、むろん僕では太刀打はできないけれども、平野謙の方が犯人を当てる率が多いと私は思う。
これは作家と批評家との根柢的な相違があるので、作家というものは常々自分自身で何かを編みだす立場だから、公式をはみだしていつも可能性の中を散歩している。江戸川乱歩氏は大勉強家で古今東西の探偵小説に通じているけれども、公式で割切ることが根柢に失われていて、いつも無限の可能性の中にいる筈と思われる。批評家は本来公式で割切る人であり、特に平野名人の如く、系列だの分類というものが生れついて身についている特異体質の悪童は、可能性などという余計な邪魔物に全然患わされるところがないから、黙って坐ればピタリと当てるというように、犯人を当ててしまうのである。