作家論について
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
自己表現の手段として小説を執筆する著者が、文学における自己のあり方と創作の意義を論じる。作家が意識的に自己を限定せず、他者の人生を借りる物語を通じて、書き終えた後に初めて自分を発見する過程を考察する。また、作家論を単なる対象の探求に留めず、評論家が自分自身を発見するための便宜的な手法として捉えるべきだと主張し、人間の不確定性と表現の限界、そして真実を探し続ける創作のあり方を綴る。
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僕の小説によらず、感想によらず、自分を表現する以外に、又、自分の思ふことを人に通じようとする以外に、余念はない。
いはゞ、僕自身の露呈に外ならぬ次第で、さうまで自分を表現したければ、「坂口安吾論」を自分で書けばいゝやうなものではあるが、未だにさういふものを書かないのは、書く必要、書く意味を認めてゐないからである。
僕は、自分や、自分の思想を表現するのに最も好都合の形式が小説であるために、小説を書く。若し評論が好都合なら評論の形によるであらうし、自伝が好都合ならば自伝に、坂口安吾論が好都合ならば、坂口安吾論によるつもりである。
僕は時々自伝ならば書きたいと思ひ、やがて(もう二三十年も生きてゐたら)或ひは書くかも知れないといふ予想を持つことがないでもない。
けれども、自伝以上に、他人の伝記を書きたいといふ気持があり、無論それは小説としての意味で、全然架空の人物の伝記かも知れないけれども、さういふ伝記なら、現に今も、時にやりかけてゐる。
自分を表現するために、なぜ他人の一生をかりるか、文学の謎のひとつが、ここにも在ると思ふ。
万里の長城も尚文学を防ぎ得ないほどその魔力は万能と云はれながら、然し、人は文字をあやつるのに決して万能自在ではない。数千年の道徳が我々の性に近くなつて多くの文字を歪める働きもしてゐるし、元来、人間の複雑極まる表裏はその一を言ふために、必ずや他の一を覆ひ隠す不法を犯させがちである。
特に、自分を表すに就て、もし我々が自分を意識したならば、もはやその限定から脱けだすことができないだらう。もし我々が、小説を書くに当つて、自分を意識したならば、自分はすでに、唯それだけのものでしかない。
けれども、凡そ人間は、常に自分自身をすら創作しうるほど無限定不可決な存在である。我々が現に自分自身に就て懐いてゐる認識のひとつが、いつ、その逆のものにならないとも限らない。我々は、熟知してゐることを正確に表現されたものを読む場合にも成程と思ひはするが、全然思ひもよらぬ真実を見せられた場合には、驚愕と共に目を打たれるではないか。そのとき、我々は、自分をひとつ、見つけたのである。