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TORENDIA

安吾の新日本地理

本文約22,400字 ・ 読了時間 約45分

あらすじ(AIが作成しました)

埼玉県入間郡高麗村を訪れた著者が、武蔵の国に高麗郡が置かれた歴史的経緯と、高句麗をはじめとする扶余族の渡来と定住の変遷を辿る。続日本紀の記述や神社に残る系図に基づき、王姓を賜った若光ら高麗王族の足跡を考察しつつ、現地の素朴な白髭様像や、政治家が参拝に訪れる不思議な由縁を交えながら、渡来人たちが辿った悲劇的な運命と、現代へ続く静かな農村の風景を情緒豊かに描く随筆である。

坂口安吾

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今日では埼玉県入間郡高麗村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能行きで終点まで行き、吾野行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗です。高麗村の北側背面は正丸峠を越えて秩父に通じ、東南は高麗峠を越えて飯能に、また高麗川を下れば川越市へでて入間川から荒川となり(つまり高麗川が入間川に注ぎ、入間川が荒川にそそいで)昔の隅田川で申しますと浅草で海にそそいでおった。その海にそそぐところが今の浅草観音様のところ、そこが当時の海岸で海はそこから上野不忍池まで入海になっていたものの由です。もっともそれは江戸開府ごろの話ではなくて、浅草の観音様ができた当時、千何百年むかしの話です。本郷の弥生ヶ丘や芝山内がまだ海岸だった頃のことだ。

続日本紀、元正天皇霊亀二年五月の条に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人一千七百九十九人を武蔵の国にうつし、高麗郡を置く」とある。これが今の高麗村、または高麗郡(現入間郡)発祥を語る官撰国史の記事なのである。

この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。

高句麗は扶余族という。松花江上流から満洲を南下して朝鮮の北半に至り、最後には平壌に都した。当時朝鮮には高句麗のほかに百済と新羅があった。百済は高句麗同様、扶余族と称せられている。日本の仏教は欽明天皇の時、今から千四百年ほど前に百済の聖明王から伝えられたと云われているのである。

ともかく扶余族の発祥地はハッキリしないが満洲から朝鮮へと南下して、高句麗、百済の二国をおこしたもので、大陸を移動してきた民族であることは確かなようです。

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