再版に際して〔『吹雪物語』〕
本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分
あらすじ(AIが作成しました)
昭和十一年の暮、自身の半生に区切りをつけ、過去を埋没させるために執筆された小説について綴る。京都で孤独な執筆生活を送る中で、自身の観念の混乱や才能への絶望に苦しみ、一年間原稿を放置した苦悩の経緯が明かされる。著者は自らの過去の作品を虚しい墓と評しつつも、絶望の末に再生へと向かった悪戦苦闘の過程を回顧し、一人の人間の痛切な営みとして本書を再版する心境を述べる。
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この小説は私にとつては、全く悪夢のやうな小説だ。これを書きだしたのは昭和十一年の暮で、この年の始めに私はある婦人に絶縁の手紙を送り、私は最も愛する人と自ら意志して別れた。
それは私にとつては、たしかに悲痛なものであつた。私はその婦人と、五年間の恋人だつたが、会つたのは合計一年にもならない年月で、中間の四年間は、私は他の女と同棲してゐた。会はなかつた四年の年月は、私の心に大きな変化を与へ、尚、初恋の女としての焼けつくやうな幻が私の胸にあるにも拘はらず、再会したその人は、別人だつた。
否、別人ではなかつた。私は尚、その人と会ふ、別に話もない、退屈してゐる、そして別れる、別れたあとの苦しみは話のほかで、それは四年以前のあの苦しみと全く同じ激越なものであつたが、会つてゐる時の私が、もう、昔の私ではなかつたのだ。
その人はもう、現実の女の一人にすぎず、私の特別な、私の心にのみ棲む、あの女ではなくなつてゐた。まさしく私はあの人と会はなかつた四年間に、あの人を夢の中の女に高め、そして現実を諦めてゐたのであつたが、四年目にあの人の方から現れてきた。そして私を混乱逆上させ、私を夢から現実へ戻してしまつたのだが、ひところ、夢に高めるといふ奇妙な幻術に自ら咒縛した私の方では、夢と現実のこのギャップには、やりきれない苦しみを味はされたものだ。
一度夢にした女が現実に現れるといふ、それ自体実際ありうべからざる怪談なので、何よりも、その現実に対する絶望の切なさに私は衰弱したものだ。夢が現実になる、然し、恋情の如き場合に、夢の女がそつくり現実の女になりうることが有るべき筈のものではなく、現実のもつ卑小さに、現実の悲しさに、私は惨澹たる衰弱をした。
そのあげくに私が遂に決意したのは、この人に関する限り、現実と訣別しようといふことだつた。
実に矛盾撞着、われとわれを疑らざるを得ないことも、私はそれをやらねばならぬ人間であつた。否、私はやはり、それをやり得た私を愛し、なつかしむ。私には、それによつて、満ち足りた面もあり得たことを信頼せずにもゐられない。